Q & A

ここは、今までにBBSへ寄せられた皆さまからのご質問やご意見と、それに対する管理人の回答を、部分的に改ざん加筆修正した上で再整理した、完全保存アーカイブのコーナーです。

Q=Question(質問)/ O=Opinion(ご意見)/A=Answer(回答)

巨神兵と墓所の関係

Q

私は、巨神兵には、裁定者としての色よりも、多神教的意図を感じます。
むしろ「火の七日間」以前の人類は、国際的に統一された思想の元になく、二陣営、もしくはもっと幾つかの陣営に別れていたのではないでしょうか?
(一応個人的には、二陣営に別れていた可能性が高いと思いますが…)

片方が、墓所のように、人類の全てを滅ぼし、人間を作り変えるのだという派閥。
そしてもう片方が、それを否定する、ある意味で現状維持を考えた派閥。

巨神兵は、物語の中で明確に成長の過程を描いています。
しかし、一神教的に言えば、神とは成長する…つまり、一時的にせよ未熟である、というような不完全な存在ではありません。
生育過程の問題や、ナウシカの言葉、教育があった可能性はあると想います。ただ、それにしても、教育次第で成長が左右されるような「擬似的な神」を、一神教の思想が生み出すとは、とても考え辛いのです。

現実的に、日本でロボット産業が大きく成長しているのは、思想的な面も強いのです。
西洋(キリスト教)的見地からは、自ら意志を持つロボットには抵抗を感じるのです。
それに対し、日本等では物や動物、機械を擬人化し同一視する事に抵抗は少なく、「心を持った兵器」を作るとすれば、むしろ非キリスト教国ではないかと…
巨神兵は「人間の心を持った兵器」だったのではないでしょうか?

私は巨神兵の「東京工?」(おそらく工場か工廠でしょうか?)の文字には、こちらの考察を見るまでは、まったく気付いていませんでした。
ただ、巨神兵が東京産(日本産?)とすると、どうしてもそう思えてならないのです。

片方の派閥は、腐海を生みだし、王蟲を生み出し、人類をリセットしようとした。
それに反対する派閥があったなら、彼等は既に生み出された王蟲や腐海を破壊しようと、「神の裁き」を体現したそれらの攻撃(?)を全力で拒否したでしょう。
もしそうであったなら、彼等は「完璧な神」を生み出す事は目指さなかった筈です。
作るとすれば、「成長」する「不完全な神」であるのではないかと思います。
自分達は不完全であるし、問題は山積で解決の兆しなんて欠片も無い。
それでも自分達は滅ぶつもりは無いのだから、腐海を消してみせる、王蟲等の蟲の群れも、我々を滅ぼそうと言うのなら、逆に滅ぼしてみせる、と。

そうして巨神兵と共に「火の七日間」を戦ったが、どうにも劣勢であり、(現実に世界は西洋的価値観が非常に力をもっており、範囲も広大です)どうしても勝てず、止むを得ず、最低限身体を弄くったと考えれば、話の流れとして、自然となってはこないでしょうか?
ナウシカの流れの中で見ても、自ら滅びを作り出す事を拒否した人々の子孫が、最終的に墓所へ詰め掛けた訳になり、強い意味を持ってくるのではないかと…
それに、世界が清浄化された後に穏やかな人間を作りだす事を決めた人々であれば、生き残った人類が、自らの身体を腐海に適応させると同時に、何故、自らを穏やかにする為の措置を施さなかったのか、といった疑問が残ります。

他にも、例えば王蟲や腐海は、破壊の後の再生まで考えた人工生命です。
それに対して、巨神兵は破壊する為だけの存在で、何かを再生する存在ではありません。

仮に、人類がある程度統一された意図、思想の下で「リセット」を考えたとすれば、巨神兵や、生き残った人類達の不完全さがあまりに不自然だと感じるのです。
そもそも腐海や蟲だけでも十分に人類が滅ぶであろう状態で、更なる破壊者、裁定者、もっと言わば「間引き」の必要性は無い筈です。

(ただ、別陣営が巨神兵を作ったのではないとすれば、先に火の七日間があり、巨神兵の間引きでは間に合わず、ヤケになって腐海と王蟲を造ったのかも知れません。であれば、巨神兵と墓所は、互いに忌むべき存在であって辻褄があいます)

台詞に「お前は千年の昔 沢山つくられた神の中のひとつなんだ」というのがありますが、多神教的な発想であれば、数多の神を作り出すことに大きな抵抗は無く、「神まで作ってしまった」という言葉の「神」が、「ゴッド」であるか「カミ」であるか、それだけで意味が180度変わってくるのではないかと思うのですが、どうでしょうか?

(ikaruga 様)

A

>「擬似的な神」を、一神教の思想が生み出すとは、とても考え辛いのです。
確かに一神教において神は絶対不可触な存在ですから、人間が神を造るという発想など神への冒涜以外の何物でもないでしょう。
しかし、これを神そのものの創造ではなく、神の正義を執行する存在の創造と捉えればどうでしょう。
神の命ずるを為し、神の正義を具現する事が教徒の本分であるならば、同じく神の正義に準ずる人間以上の存在を生み出し、それに従う事もまた教徒の本分に外れることではないように思います。
「神を造るなんてもっての他だけど、天使を作るのはノープロブレム!」みたいな。

>巨神兵は「人間の心を持った兵器」だったのではないでしょうか?
私は巨神兵を「人間の心を持った兵器」ではなく、「先天的に決定的な自我を持った存在」だと考えます。
実際、オーマが調停者・裁定者になったのも、ナウシカがそう育てたわけではなく、もとから内在していた巨神兵の同一性が表れるべくして表れたからです。
また、旧文明の科学者が巨神兵に自我を持たせた理由は、人間の意志に従う兵器ではなく、神の意志に従う人間以上の存在を求めていたからではないでしょうか。
欲望や恐怖に揺れ動くような弱い心ではなく、決して揺るがず正義を行う純粋な心は「神の正義の代行者」に不可欠なものです。
ナウシカに名を与えられた後のオーマは、まさにキリスト教に言う「力天使」そのものの性格をしています。

>そうして巨神兵と共に「火の七日間」を戦ったが、どうにも劣勢であり〜
巨神兵と腐海が同時期に存在したのならその解釈も成り立つでしょうが、墓所が語った言葉を見る限り、墓所と腐海と蟲(世界再建計画)は火の七日間の後に作られたと見るべきでしょう。
巨神兵が破壊のための存在であり、腐海や蟲たちが再生のための存在であるのも、両者が作られた時期と状況が違うからだと考えれば筋が通ります。
巨神兵によって大量の間引きには成功しましたが、それ以上に人類の生存可能地域が減少してしまい、「もうこーなったら地球丸ごと浄化しちまおう!」という発想が墓所と腐海を生み出したのだと思います。
それでも、旧文明が複数の陣営に分かれていたというのには同意見です。

>何故、自らを穏やかにする為の措置を施さなかったのか
穏やかな人類は競争本能がないので、この時点で生み出しても他の人類によってすぐ駆逐されてしまうからだと考えたからだと思います。
旧人類を新人類化するならば全人類を一斉に変えるか、新人類でなければ暮らせない清浄の地によってフィルタリングするしかないでしょう。
あるいは、始めから穏やかな人類を作る事は可能でも、旧人類を穏やかな人類に変える事はできないのかもしれません。

確かに「神」という言葉をより慎重に用いるキリスト教などとは違い、この作品には多くの「神」という表現が使われています。
これは思いますに、作者の宮崎氏にとって多神教的な表現がより身近だったからではないでしょうか。
おそらく宮崎氏はとても仏教よりの思考をしており、キリスト教的な思考や表現にはあまり知識も関心も無いのではないかと。

旧文明末期に人間以上の存在を作るのがブームになっていたようですが、それらを「神」と呼べば多神教的でも、それらを「天使」と呼べば一神教的になります。
私がこう言うのも筋違いでしょうが、宮崎氏は「神」という表現を用いずに「天使」という表現を用いるべきだったように思います。

 

変化について

O

種、生命って周りの環境などに合わせて、変化していくもので原始の生命って皆、アメーバみたいなものだったじゃないですか。
猿から人間に進化したといいますが、この両者はまったくの別の存在です。
つまり私が言いたいのは、「未来永劫、存在し続ける種は存在し得ない」ということなのです。

墓は再び人間の世界を復活するのだとか言っていますが、その人間はとっくに滅んじゃってます。
ナウシカなどのこの世界で住んでいるヒトは、すでに腐海に適した遺伝子を持っているし、世界が復活した暁に出てくる卵のヒトも、遺伝子を弄繰り回されています。
この両者のヒトは、旧世界の人間とはまったく違う生き物、種族だということなのです。

だから、この墓が行っていることはとてもナンセンスとしか言いようがなく、ただの厄害を撒き散らす疫病神そのものです。
”永遠に存在するものは存在しえなく、消え行く定め”が分かっていない。
生命って何万年、何千万年かけていや、限りない時を掛けて変化していくものですし、それを止める術はないです。
その過程で、ある種族の生き物は、環境に適応できなくて滅んだり、進化、変化して違う存在になり消えます。
例え、すべての生物が滅んでもそれは変化の結果なので、そこに良し悪しの基準はないのです。

種とかそういう枠組みではなくして、“個人として幸せか”が一番大切なのであり、誰しもが求める究極的な思想そのものなのです。
今、生きている一瞬、一瞬がとても大切で、どう幸せに生きていくのかが一番大事な事なのだと私は、思いました。

(ナムリス 様)

A

永遠に続く種などない、というのは事実その通りだと思います。
ナウシカ作中においても、遺伝子学的に見れば火の七日間前の人類と後の人類とでは、まったく別の種と言えるでしょう。
言い換えるならば、ナウシカたちですでに新種の人類=新人類だったわけです。

私が思うに「種の境界線」というものは、現実にはひどく曖昧、というかむしろ人間の思考の中にしか存在していないのではないでしょうか。
種という概念自体がそもそも決定的な枠組みではなく、ある特定の生物グループに共通して見られる特徴を便宜上、種の分類に利用しているだけの事です。
そしてその共通点の規模に合わせて、「○○類□□科△△目」と学術上、学者さんたちが勝手に分類してるだけの話です。
進化論によれば、いかなる時制においても全生物はその絶え間ない進化の過程にあり、流動的に変化し続けているのですから。
つまり種の境界とは、それを個人の思考において必要とする人(学者や差別主義者など)の中にのみ存在すると言えるでしょう。
学術的な種の分類も、極めて人為的な作業にしか過ぎません。
例えば、バストがCカップ未満の女性とCカップ以上の女性を別の種族であると誰かが学会に提唱したとして、仮にそれが承認されたとしたら、その日から貧乳と巨乳は別の種族となってしまうわけです。
つまり、ナムリスさんが仰るように、旧文明の科学者たちが「人間という種の永続」などのために墓所を建造したこと自体、全くのナンセンスなんですね。
もしかしたら彼らは現実に対する絶望から、アダムとイヴが追放される以前の『楽園』の建設を遺産として、人類を滅ぼそうとしていたのかもしれません。

O
墓は、変われない、変化しない半永久的なものだったから滅びたと思っています。
周りの環境は、刻々と変化しているが、彼だけは旧世界のまま。
彼が、ナウシカを食い止められなかったのは、昔のままで、新しい思念、概念を持とうとしなかったから。
”変化しない、絶対的なものはいつか壊れる”
これは、現実の我々でも当てはまっていて、生き物全体の進化だけでなく、私たちも心の変化なしには生きて行けない。
悲しみや、痛みは、時が経つにつれ、自分が変化し、消えないが和らいでいくのに、変わらなければそれらに押しつぶされて
しまいます。

もし仮に、墓が楽園を建設し、新しい人間もどきを解き放ったとしても、初めに投稿したレス通りに、絶え間ない環境の進化圧によって、自然選択により、彼らも少しずつ変わっていってしまい、絶滅か、別の存在になっていまいます。
もし遺伝子的に、遊び、揺らぎがあるランダムな突然変異がなくずっと変わらないように操作されていたとしたら地球の環境の変化に適応できなく、滅びてしまいます。また旧世界の科学力を結集して地球の環境変化を止めても宇宙そのものが、崩壊したりしたらすべてがオジャンになってしまいます。
結果的に、楽園は樹立できない。科学者はロマンチストといわれていますが、旧世界の科学者のマスターベーションに過ぎないなと。一瞬的な理想に、未来の生きものをを巻き込むなと。

僕が同種の範囲について、改めて思うことは、同じ種族でも、厳密にはそれぞれ違う存在です。ただ遺伝子的に大半が似てるというだけで、それでも生物の種類分けをするのなら、僕は、交尾でき子供を作れる互換性があれば、それらは同じ種族だといえるということです。例えば、馬と人間が交尾できる互換性があって馬人間が生まれるとしたら、馬の世界で生きるための適応度、人間の世界で生きるための適応度、双方ともガクッと落ちてしまい、生き残るか子供を残す確立がかなり薄くなってしまいます。だから本能的にそうならないんだと思います。

常に周りの環境により、変化していくことをナウシカの”それは、星が決めること”の真の意はもしかしたら、このようなことなのかなとこの頃感じています。
それに対し、墓は”それは虚無だ”と言います。墓は、変わらないことを肯定しているんですね。

(ナムリス 様)

A
おっしゃる通り、「変化を否定するものは滅びる」というのは私も全くの同意見ですし、また宮崎駿氏が作品中で主張している事でもあります。
ナムリスさんのご意見はどこもツッコミ所のない正論なので、ちょっと概念的な話をしてお茶を濁したいと思います。

厳密に言って、「変化しない、絶対的なものはいつか壊れる」というよりも、むしろ「変化しない、絶対的なものは存在しない」と私は考えます。
いつ、どこで、どのように始まったのかはまだ分かっていませんが、世界の始まりから現在に至る時の流れは、そのまま万物の変化の過程と置き換えることもできます。
そもそも「時間」というもの自体が物質的なものではなく、「変化」という現象から導き出された概念に過ぎません。
万物は常に変化し続け、それらの進行をとらえる普遍的な目安として、「時間」という言葉が用いられているのです。
つまり「絶対的に変化しない」という事は、「時間軸が存在しない」という事と同義になるのです。

世界を極めて物理学的・唯物論的に表現した言葉に、「全ては化学反応である」というものがあります。
全宇宙のあらゆる現象を、ある物質と他の物質との相互的な反応として捉えたのです。
言い換えれば、「全ての存在は相対的である」となります。

しかし、仮に「絶対的な存在」が在るとしたら、それは以下のような特徴を持つ事になります。

・ 時間軸がない。
・ いかなる物質からも隔絶され、反応せず、影響せず、影響されない。

これを具体的な例に置き換えてみると、以下のようになります。

・ 光を反射も吸収もしないから見ることもできない。
・ 反発もしないから触ることもできない。
・ それ以外のいかなる測定でも反応が得られない。
・ それ以前に、どこに在るのかもわからない。

このような特徴に当てはまる概念は一つしかありません。
「無」です。
つまり、「絶対的な存在」と「無」は同一なのです。
だから、いかに科学技術が進歩しても、全く変化しない存在を創り出すのは論理的にも技術的にも不可能なのです。
そして、「絶対は無い」という前提を出発点としたのが、本来の意味の「科学」なのです。
未知なる世界を探求する科学者はロマンチストと言えるかもしれませんが、少なくともその方法論が現実主義的であることが科学者たる最低条件なのです。

 

しかし、旧文明の科学者たちはその「永遠に変化しない世界」を創り出そうとしていました。
これを理解するには、科学の対極に位置する方法論に目を向けてみる必要があります。

絶対の否定から始まった科学とは逆に、「絶対は在る」という前提を出発点としたのが「神秘主義」や「神学」、いわゆる宗教と呼ばれるものです。
特にユダヤ教系の一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)は、唯一絶対の神を宇宙の創造主とし、ダーウィンの進化論を認めません。
要するに、現存する種は全て、今と同じ姿かたちで誕生したというのです。
これを踏まえれば、「永遠に変化しない世界」という発想もある程度理解できるでしょう。
彼らは全ての変化を「神へ向かう変化=善」か「神に背く変化=悪」のどちらかである、と考えます。
言うなれば、「正しい在り方のできる生物を作れば、正しい世界が実現できる。そして、その正しさは神によって保証されているのだから、永遠となるはずである。」という理屈です。
始めから終わりまで、ありとあらゆる疑問に対する答えが「神」なのです。
これは根本的に科学とは相反する論理に立った思考です。
つまり、墓所を建造した旧文明の科学者たちはロマンチストだったのではなく、現実から偽りの理想に逃避した哀れなエセ救世主だったのです。
こういった人間は、たとえ科学知識や技術を持っていたとしても、本質的には科学者とは呼べません。
しかし、彼らの論理自体を否定する事は非常に困難であると言えるでしょう。
これは敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒を説得して無神論者にするようなものです。
「神=絶対」がシェマの最も基底的な因子である為、それを変えるのはそれまで積み上げた全てを捨て去ることを強要するからです。
私も何度かクリスチャンと議論した事がありますが、どんな矛盾を突っついても彼らは答えを見つけ出し、結局、最後はいつも平行線に終わります。
膨大な数の人間が2000年かけて積み上げた幻想は、ちょっとやそっとで崩せるものではありません。
我々にしてみれば、「21世紀になってもまだ神さまが世界を創ったなんておとぎ話を信じてるなんて、バカじゃないの?」って感じですが、彼らにしてみれば 「人間がサルから進化してきたなんて寝言を本気で信じてるなんて、バカじゃないの?」といった感じでしょう。
そして、この「神の原理」に基づいて生きている人間は決して一部少数派ではなく、地球上の全人口の過半数に及ぶ事を頭に置いておく必要があります。

 

もう一度私の考えを言うと、「絶対的な存在は存在し得ず、全ての存在は相対的である」となります。
言い換えれば、存在する以上変化は避けられないものであり、むしろ変化の中にこそ「存在」という概念の本質がある、と言えます。
「変化し続ける宇宙の中の、変化しない一部分」など、論理的にもあり得ない矛盾なのです。

「色即是空、空即是色」という言葉があるように、こういった考え方はとても仏教的なものです。
日本人は一般に無宗教だと考えられていますが、基本的な物事の考え方においては仏教の影響を強く受けています。
にもかかわらずあまり宗教的にならないのは、仏教自体が一神教などに比べると「宗教的ではない宗教」だからだと思います。
日本人の世界観は、仏教と科学との絶妙なバランスの上に成り立っているように思います。
宮崎駿氏自身がどれくらい仏教について造けいがあるかは知りませんが、もし彼がクリスチャンだったらこういった物語は描けていないはずです。
深読みすれば、「風の谷のナウシカ」という物語は、宮崎駿のキリスト教(及びユダヤ教・イスラム教)批判と捉える事もできるかもしれません。

 

生物の進化の分岐点は、それぞれの種が異なる能力に特化して行った結果です。
そして能力の特化は、その種の「生存の戦略」と言い換える事もできます。
同時に、どの時点で分岐したかが、そのまま遺伝子の差異に表れています。
例えば人間の遺伝子と比較した場合、「類人猿>その他の哺乳類>爬虫類>両生類>魚類>ナマコ」と、遺伝子の類似性は進化のどの時点で分岐したかによっては決まってきます。
分岐したのが近ければ生存戦略も似たものとなるので、遺伝的互換性が生まれるのでしょう。
ただ、この遺伝的互換性は決してその環境によって決まるものではないと思います。
例えば、もし猫人間が生まれたとしたら、ものすごい人気者になる可能性があります。(特にアキハバラ周辺で)
それでも人間と猫に遺伝的互換性が無いのは、種の生存戦略がその時点の環境ではなく、それまでの進化に基づいているからだと考えます。
だから、たとえ馬と交尾する方々が一部にいたとしても、馬人間が生まれる心配は(幸いにも)なさそうです。

長文な上、オチがお下品で申し訳ございません。

 

雨って降るの?

Q

私の一番の疑問はナウシカの世界における、雨の存在です。
雨というのは酸性雨などのように、空気中にある汚〜いものも含んで落ちてきます。
ナウシカの世界では、もはや地表の約半分が腐海に覆われ、胞子と瘴気が充満していまるわけですが、そんな中で雨が降ったりなどすれば、風の谷のように、腐海のほとりに存在する国はたちまち汚染され滅んでしまう筈ではないでしょうか。
そしてどこかに存在する清浄の地もまた、ただではすまないでしょう。
作品中では雨の描写は一切なく、水は地下から得ているようですから、ナウシカの世界では雨は降らないのでしょうか。

(早乙女 様)

A

基本的にナウシカの世界では、雨はあまり降らないような気がします。
全体的に描写を見ても、腐海以外の場所はどこも乾燥した所ばかりのような印象を受けます。
とはいえ「第3巻P-75」ではバッチリ降っているので、全く降らないわけでもなさそうです。

では、雨がナウシカたちの生活にとって無害なのかどうかについて考えてみます。
これにはまず、ナウシカの世界が具体的に「何で汚染されているのか」に注目する必要があると思います。
例えば酸性雨ですが、これは「大気が硫黄酸化物や窒素酸化物などによって汚染されている時に発生する」そうです。
この酸性雨の原因となる硫黄酸化物や窒素酸化物は、主に化石燃料が燃えた時に発生するものなので、それを排出する文明が消滅してしまえば汚染は持続しないはずです。
おそらく「火の七日間」直後は、高濃度の酸性雨やら放射性雨などが降ったでしょうが、さすがに何年も経てば大気中からは消えるでしょう。
その分、土壌は汚染されたでしょうが。

風の谷は海から吹く風によって守られているので、腐海から瘴気や胞子が飛んでこないとなっています。
また、
「第1巻P-90」に書かれてるように、瘴気も胞子も高々度までは及んでいないようなので、少なくとも雲は汚染されていないハズです。
それでも徐々に腐海が侵出してくれば、どうしたところでやがては腐海に飲み込まれてしまうでしょう。

また、「清浄の地」が瘴気を含んだ雨によって再び汚染される可能性も、「第4巻P-28」でセルムが「瘴気はじきに結晶化し安定する」と言っているので、問題ないのでしょう。
つまり、瘴気は吸い込めば致命的に有害でも、それ自体が土壌を汚染させる事はないようです。

 

人間が腐海を生み出した意味は?

Q

私には一つ解釈があやふやな部分があって、それは「人間が腐海を生み出した意味」です。
人間は、人間を「汚染に適応できる人類」に造り変えることが出来ました。だとすると、腐海を生み、汚染された土地を浄化しなくとも、現在のナウシカ達が生きているように生きていけたのではないでしょうか。

(masa 様)

A

確かにおっしゃられる通り、人類を汚染に適応させる事ができた時点で、生存の問題は(実際は)ほぼ解決したといってよいでしょう。
しかし、「汚染に適応」といっても完全なものではなく、石化の病からは逃れられません。
また、そこにあるのは汚染された広大な不毛の地と、汚染から免れたわずかな土地だけになります。
人類が再び繁栄するには、条件的にかなり厳しいものがあると言えるでしょう。
たとえ、かろうじて人類の生存が可能だとしても、このような世界は「火の七日間」当時の人間(世界再建計画の発案者ら)にとって、理想とは程遠いものであったに違いありません。
彼らには世界を焼き尽くした当事者としての罪悪感があり、それが世界再建の責任感に結びついたと考えます。
だから彼らは、自分達の理想とする世界(=楽園)を創るため、腐海を生みだしたのだと考えます。

 

きれい? きたない? 地下の水

Q

ナウシカ達にとっては、あの様に生活していれば、「地下の汚染されてない水」の方を、汚染していると認識するはずではないでしょうか?
地下深くの水では植物は育たないが、いったん地上の池で土にねかせておくと、植物が良く育つ水になっているので。

(masa 様)

A

ナウシカは単純に、水に含まれる汚染物質のことを言ってるのでしょう。
汚染は地中深くまでは及んでいません。
もし仮に汚染が地下深くまで及んでいたとして、ナウシカが地下深くの水を汚染されていると考えたなら、「その汚染された水を地上で寝かせておく(=さらに汚染する)と植物が良く育つ」、という論理になります。
いずれにせよ地上が汚染されている事は不動の事実なのですから。
よって逆説的に、「地下の水は汚染されてない」と言えるでしょう。
作中には出てきませんが、ナウシカは水質検査していてそれに気付いた、と考えます。

 

墓所の主の代弁者=庭園の主?

Q

庭の番人(墓所の主の代弁者)のことですが、解説では、両者は同一人物のように取られていますが、自分としては別人なのではないかと思います。
根拠としては、代弁者は201pの3コマ目でナウシカのことを「娘」と言ってますが、ナウシカは庭の番人には「ナウシカ」という名前を教えていますし、そうでなくとも、ナウシカのことを「オーマの母」と呼ぶはずだと思います。
もう一つは、ナウシカと番人が別れる場面で、番人は「もう止めはしない」と言っていますが、代弁者は明らかに止めるようなことを言っています。

(虹夢 様)

僕は同一人物かどうかははっきりとしないと思います。
また、同一人物でもどちらでいいと思います。
しかも、必ずしも「人物」と呼んで良いかも微妙です。ヒドラは人物ではないですし、また、墓所の主も「人物」と呼べるか微妙です。憑依しちゃってますし。
でも、仮に同一人物だとしても、「娘」と呼んでも不自然ではないと思います。
なぜなら、庭ではヒドラが、ナウシカを一人の庭に来た客人として、1対1で会話をしているのに対して、墓所では、旧世界の人間の代表対1000年後の子孫の代表として会話をしており、ナウシカとして対話しているのではないと思います。
ですから、1000年後の子孫、つまりは娘なのですから、娘と呼んでも不自然ではないと思います。
最初にも、「子等」と呼んでいますしね。
個人対個人と、代表者対代表者の違い、これは庭と墓所の大きな違いだと思います。

(若輩者 様)

番人と道化の顔に現れた謎の人物をこのサイトでは同一人物のようになっているが、違うと思う。
ナウシカは謎の人物のことを「お前」と呼び、お前のことを「肉腫と汚物だらけになってしまった」とか「浄化の神としてつくられた」と言っている。
庭にいる方は浄化の神ではなく番人で、どこからどうみても肉腫と汚物だらけではない。
肉腫だらけなのは墓の主だから、謎の人物は墓の主で番人とは別人ではないのか。

(メーヴェ 様)

墓所の主って庭の番人と同じ人なんですか?
自分は人型ヒドラはみんな同じ顔にしたと思ったんですが・・・。
あの庭の番人は死んでしまったんでしょうか?

(通りすがり 様)

A

墓所でナウシカと対決した“彼”が庭園の主である、という根拠は以下の通りです。

@ナウシカが彼を「あわれなヒドラ」と呼んだこと。
墓所の主(本体)は「肉の塊」であり、ヒドラではない。
庭園の主をセルムがヒドラと呼んだからこそ、ナウシカもここで彼をヒドラと呼んだのだと考えます。
もし別のヒドラなら「イタコの口寄せ」みたいな面倒なことをせず、そのまま歩いて出てきたでしょう。

A会話の流れが自然であること。
墓所での両者の対決は、まるで庭園での対話の続きのように自然に始まっています。
少なくとも私には、両者が初対面のようには感じられません。

B代弁者がナウシカを「娘」と呼んだことについて。
私も若輩者さんと同意見です。
ここでのナウシカのペルソナ(立場)は、「ナウシカ」という一個人でも、「オーマの母」というイレギュラーでもなく、黄昏の世界に生きる全生物の代表であると言えます。
だからこそ代弁者はナウシカに対して、「娘」という不特定人称代名詞を使ったのだと思います。
また相手を上からの目線で「娘」と呼ぶことで、優位に立とうという意図も感じます。

Cナウシカが庭園を去る時に「もう止めはしない」と言ったことについて。
あの時点でナウシカは、墓所(世界再建計画)を破壊しようとする(少なくとも明確な)意図は持っていませんでした。
「真実を見極める」ために庭園を去ったのです。
だからこそ「庭園の主」も、あえて止めなかったのだと考えます。
更に言えば、「庭園の主」自身、ナウシカも今までの王たち同様、墓所の説得を受け入れ、計画の協力者になるだろうと考えたのではないでしょうか。
しかし墓所での対決で、ナウシカははっきりと計画の敵となったのですから、彼がそれを止めるのは必然と言えます。
具体的に言うなら、庭園での対話した時の彼のペルソナは「庭園の主」であり、墓所での対決時のそれは「墓所(世界再建計画)の“番人”」である、と考えれば分かりやすいと思います。

また「肉腫と汚物」というのはあくまで比喩です。
この言葉が指すのは「教団」や「神聖皇帝」などの、墓所の技術を流用して死の影を撒き散らした連中でしょう。
実際、墓所だって「肉塊」ではありますが、「肉腫」というわけではありませんし。
「墓所の番人」と「庭園の主」が同一人物である事は、第7巻P-200をじ〜っくり読めば分かると思います。

そもそも私には、「墓所の主」自身が言葉をしゃべれるか、というよりも知性(思考力)を持っているかすら疑問に思います。
「墓所の主」はただプログラムに従って計画を推進する生体マシーンのように感じます。
最初に現れてナウシカを説得しようとした科学者っぽい人々を、ナウシカが「影」と呼んでいるように、あれは「墓所の主」の持つ知性ではなく、単純に再生された計画者たちのメッセージ映像だと考えます。
つまり「墓所の主(肉塊)」に人格と呼べるものは無く、
代わりにそれを補佐する為、あのヒドラに自我が与えられているのだと考えます。
思うに、墓所の主と庭の番人は、「ハードウェアとソフトウェア」のような相互補完関係にあるのではないでしょうか。

ナウシカの墓所破壊によって「主」は死にましたが、番人のほうは彼の庭園でピンピンしてるでしょう。
まぁ、世界再生計画の柱である墓所がツブれてしまったので、彼の役目はもう庭園の維持くらいしか残っていないのですが。

 

清浄の地の動植物はどこから?

Q

ナウシカがセルムと行った腐海の尽きる所(清浄の地)にはすでに動物や植物がいましたが、それらは一体どこから来たのか?

(アホガラス 様)

7巻にあるように、人は生物を汚れた世界にあうように変えてしまったのに、なぜ6巻の浄化された場所には鳥がいて、そこでその鳥は生きることができているのか。

(メーヴェ 様)

A

清浄の地にすでに動植物が生息していた事について、私は庭園(=種の貯蔵庫)が一つではなく、世界各地に点在していた為と考えます。
これはナウシカが庭園で番人に「このような場所が他にもあるのか」と確認しているように、庭園は世界各地に点在していて、周りの大地が清浄化された時に自動的に開放される仕組みなのではないでしょうか。
O

そうですよね、「庭」が複数ある可能性は十分にありますね。
あと考えられるのは、自然に発生する可能性。
腐海の木々が浄化の役目を終えてもそのまま生き続けたり、腐海の毒を毒と思わない生物がいるかもしれない。
酸の海を渡ってきた渡り鳥なんかもいたりして。
そんな旧人類の予想を超えることがあっていい気もする。

(アホガラス 様)

 

王蟲=墓所?

Q

7巻最後のほうのナウシカの台詞「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」は何と意味するのか。王蟲と墓は同じものだということでしょうか?

(メーヴェ 様)

A

これは王蟲と墓所が同じ技術、つまり同じ者たちに作られた事を指しています。
ちなみに実際、現実でも人工血液は青かったり白かったりするらしいです。

 

不死身のミト&アスベル

Q

7巻で墓所の上に不時着したミト&アスペルの事なんですが、
彼らあの天の火の中どうやって生き延びたんでしょうか・・・?
墓所以外は四方八方吹き飛んでるのに・・・・。

(みじめで哀れな学生 様)

A

なかなか細かい所を突いてきますねぇ。
私の見解を一言で言うと、「マンガだから」となってしまいます。
無理やり理屈をつけると、「爆風は水平方向に広がったので墓所の直上には被害が出なかった」とか「墓所はなんかバリアーみたいのが出せる」とか、何かしら説明付けられるかもしれませんが、正直あの時点で、宮崎氏がそんなとこまで考えていたとは思えません。
ヴ王と道化も何故か、無傷でしたしね。
普通に考えれば、熱線や爆風を防げても放射能で即死なのですが・・・。

 

墓所に遺された技術

Q

何故、墓所には余り必要ない技術まで残されているのでしょうか?
大海嘯の呼び水の粘菌や、生物を作りかえる技術
等は、世界の再生のためには欠かせない技術だと思います。
が、ヒドラを創る技術や、ヒトをヒドラにする技術は残すべきではない気がします。

(みじめで哀れな学生 様)

A

墓所に遺されていた技術は全て、世界再建計画にとって必要なものだったと考えます。
生物を作りかえる技術は、生き残った旧人類を新人類に作り変えるためのものでしょう。
ヒドラに関しては、庭園のように再生後の世界で人に代わる労働力として利用されるためと考えます。
人をヒドラ化する技術は必要ないものと思えますが、これは教団が主の文字を読み解く過程で編み出した亜流の技術で、墓所オリジナルのものではないと考えます。

世界再建だけなら墓所には何の技術も残す必要はありません。
腐海は自然消滅しますし、清浄化後の世界の種もすでに蒔かれているのですから、墓所は「新人類の卵」貯蔵庫以上のものではなくなります。
旧人類を新人類化しようとした時だけ、初めて墓所に旧文明のバイオテクノロジーが必要になるのです。
というわけで、当サイトは「旧人類の新人類化は可能だった」説を提唱していきます。

 

庭園の主は元人間?

Q

庭の番人は元人間だったのか。
「再生の神として創られた」と明記されてますが、なんか人間っぽくないですか、彼?(根拠ナシ!!)

(みじめで哀れな学生 様)

可能性は高いですね。
全くのゼロから生物を生み出すことが出来るのか分からないのですが
(どうやって原始の地球で生物が発生したのかは何かで調べれば分かるかもしれません)、既に存在する生物を遺伝子工学等で作り変えるほうが簡単なように感じます。

(アホガラス 様)

A

庭園の主が人間っぽいのは、彼が非常に人間に近い遺伝子を持っているからだと思います。
「生物を意のままに作り変える」という表現は、旧文明の遺伝子工学は遺伝子の完全な解明を達成していたという事を意味しています。
それを利用して作った、「人間以上の知性と肉体を持った老化しない生物」が番人なのではないでしょうか。
この作品で「ヒドラ」という呼び名は、遺伝子工学によって生まれた人造生物の総称として用いられています。
また、サボテンダーがあんなルックスと知性しか持ってないのは、その方が使い勝手が良かったからでしょう。

 

旧文明の人はヒドラ化しなかったの?

Q

何故、墓所には庭の番人のような旧文明を知っているヒドラがいないのでしょうか?
庭の番人や、ヒドラ化した旧時代の人物がいれば教団の人方が努力しなくて済むのに・・・と思いました。
ヒトをヒドラにする術があったのに、旧時代の人は何故一人もヒドラになってないのか気になります。(作中に出て来てないだけかもしれませんが、墓所と関わってない以上同じだと僕は考えます。)

(みじめで哀れな学生 様)

A

まったくその通りだと思います。
番人のようなヒドラが何体もいて、それが墓所や墓所の技術を管理していれば、わざわざ教団などというものを中に住まわせる必要もなく、再生の朝までずーっと扉を閉じていれば済んだ話です。
厳密には、外部の協力を必要としていたのは墓所ではなく教団だったのですから。
まぁ、あれだけ完成された究極のヒドラは、技術的・時間的に一体作るのが精一杯だったのかもしれません。

ヒドラ化した旧時代の人間関して、当初は何人かはいたと私は思います。
ただ始めから遺伝子工学で生み出されたヒドラと違って、既に活動している生物の身体をいじった所で完全な不老不死にはなれないでしょう。
教団の連中の顔を見ても明らかに劣化しているので、「メチャンコ長生きしたけど、もう死んだ」という説が有力です。
まぁ、この辺の設定に関しては、科学的に見るとツッコミどころが多過ぎて、むしろ言うだけ野暮という気もします。

 

ホントは臭い? 森の人

Q

同じ森の中で暮らしているのに蟲使いは臭いと言われるのになんで森の人は臭いと言われないんでしょうか?
ニオイの根源のひとつは汗だと思うんです。蟲使いの服はおそらく人工のものですが、森の人の服(といって良いものか・・)は明らかに天然素材ですよね・・・(緑だし)?
葉緑体を残したまま衣料品として使うのはアレなので蟲から取った動物性(←この時点で臭いかも) のものだと考えてみると通気性は蟲使いの服には 遥かに劣ると思うので実は森の人の方がくs・・・
でっ・・・でも汗じゃなくて蟲のニオイとか排泄物の処理が不適切とか風呂に入ってないからもあると思うので一概にこうとは言えないですよね・・・?

(みじめで哀れな学生 様)

A

蟲使いの悪臭は仰る通り「汗臭さ」だと私も思います。
ナウシカの守人になった時、醜男たちもマスクを外すのは不吉だと言ってましたし、基本的に服を変えないのでしょう。フロにも入ってなさそーですし。
もしかしたらあのマスクは自分たちの悪臭対策にもなっているのかも知れないですね。

その点、森の人は比較的服を脱いでる場面が多く出てきますね。
結構、こまめに洗濯してるのかも知れません。
彼らの服は「蟲の腸から出来ている」と書いてあるので、普通に考えたら決していい匂いはしないでしょうが、作中では「とび蟲の背から出る香料」のおかげで、「とても良いニオイがする」とケチャが証言しています。
ただ、通気性に関しては、おそらく皆無でしょう。
通気性なんてモノがあったら瘴気入りまくりでしょうしね。

ニオイというのは目に見えないだけに、文字にすると非常に強いイメージを対象に付与します。
例えば、
「スルメのニオイがする清純派アイドル」
とか、
「バッタのニオイがするファッションモデル」
といった文章を見た場合、おそらく大抵の人が微妙にやるせない気持ちになるでしょう。
これは文章の前半と後半で全く異なるイメージが、全体の印象では均質化されているからです。
これを心理学では、「連合の法則」と言うそうです。
つまり、「森の人は良いニオイ」と書くことで、著者は森の人に清潔で上品なイメージを付与しているのです。

 

おい、ヒドラ! お前、ナウシカに何をした?

Q

番人がいる庭にナウシカが行った時、人が火を知る前の組成の大気を吸っても大丈夫なように何かをやった、と番人が言っていましたが・・・何をしたんでしょうか?(あのお風呂がそうなんでしょうか)
あと人が火を知る前の組成の大気を吸っても大丈夫という事は、ナウシカは浄化されている土地へ行っても大丈夫なんでしょうか?
もしそうだとしたらナウシカは、世界が浄化された後に浄化された大気に耐えられるように生物を元に戻す術が墓にあるから、未来に必要ない技術が保管されている墓所をエンリョなくブッ壊したんでしょうか?

(みじめで哀れな学生 様)

A

まずナウシカが墓所を破壊した理由は、単純に墓所の存在理念が彼女の思想と決定的に相容れないものだったからです。
生命体を作り変え、生態系をコントロールしようとする発想そのものが、『生命』に対する冒涜だとナウシカは考えているので、庭園に浄化適応技術があるからとかそんな事は、「知ったことくゎー!!」というのが率直なところでしょう。
墓所は存在しているだけで害になりましたが、庭園はただあるだけなら何の問題もないので破壊しなかっただけだと思います。

「人が火を知る前の組成」の空気は、我々からすればただの「きれいな空気」ですが、ナウシカたち作り変えられた種族にとっては猛毒となります。
だから番人(ヒドラ)はナウシカ(とトルメキアのアホ兄弟)の体に清浄適応処理を施して、庭園の空気に適応させました。
他にそれらしい描写もない事ですし、あの薬湯浴がその処理だったと仮定していいのではないでしょうか。
ただ、薬湯浴(仮定)に体を作り変えるほどの効果があるとは思えませんから、この適応は一時的なものと思われます。
そうでなければ、汚染された世界に帰って行ったナウシカの余命はあとわずか、という事になってしまいますし。
庭園に永住した人々も、定期的に薬湯浴(仮定)をすることで適応を維持していたと考えられます。

庭園の役割はあくまで「貯蔵庫」ですから、そこに生命を作り変える技術は置かれていないでしょう。
その技術を持っているのは墓所だけと考えます。

 

ナウシカ=新しい王?

Q

突然ですが、クシャナの台詞の中に、「すでに新しい王を持っている」(第7巻222p.6コマ目)というのがあって、誰が真の王なのかと以前から議論されてきました。
ナウシカだという人や民主主義だという人もいましたが、結局はっきりしませんでした。
先日、たまたま「PLASTIC ARC」というホームページに行ってみたらある人の意見の中に、クシャナがナウシカにマントを渡した(第7巻14p.5・6コマ目)ことによって両者の役割(立場?)が入れ替わったといったようなことが書かれていていました。
これがヒントになって、きっとクシャナはナウシカを王に相応しい人物と認め、王家のマントを渡したのではないか。若しくは、宮崎さんがそのようなことを暗に仄めかしていると考えついたんです。
ACE@管理人さんも、マントを渡す場面が後々大きな意味を持つと書かれていますが、
このことを言っているのですか?

(アホガラス 様)

A

ご推察の通り、クシャナの言う「新しい王」は、ナウシカの事を指しているものと考えます。
マントを渡した時の状況は単純にナウシカが裸同然だったからですが、後になって新しいマントを「ナウシカが着けている」と拒んだのは、クシャナがマントを王位の象徴と捉え、それを着けるに相応しいのは自分ではなくナウシカだ、と考えた事の表れだと思います。
特にクライマックスでは、ナウシカの「王」としての位置付けが再三(※)強調され、宮崎氏がナウシカを「王=人類を率いる者」として描いている事は明白と言えるでしょう。
※例: 蟲つかいの王、墓所の主の従者がナウシカに道を譲った事、道化の「新しい王が来た」というセリフなどなど。

また、本来「王」とは(少なくとも宮崎氏の考える「王」とは)、人の上に立ち支配する者ではなく、人の先頭に立ち、他の誰よりも重い責務と苦悩を背負い、天下の正道を歩む者であると考えます。
ユパが「王道」という表現を使ったのも印象的ですね。
「王道」とは「覇道」の反対語で、力を以って天下を治める「覇道」に対して、理を以って天下を治めるを「王道」とあります。
「ナウシカ=王」という図式に違和感を覚えるのは、歴史上、いかに王道を以って世を治めた「王者」が稀であったかの表れでしょう。
あるいは宮崎氏の理想とする社会制度は、「世襲ではない君主制」なのかもしれません。

Q

「王」というよりは「導く者(リーダー)」のほうが」しっくりしますね。読者からすれば。
当の本人に上に立とうという気があまり無いですからね。

「違和感」が何かを意識して考えてみると、多分、それは身分や階級、肩書きなどの類だと思います。
彼女を「王」とかそんな言葉で括ってしまっていいのか…。
それに、人を導くような素質・能力をもっていても、彼女は皆と同じ立場で生きていきたいと純粋に願っています。
族長の家に生まれたことを悩んでいたのはその表れかもしれません。
クシャナがもし、ナウシカが王に相応しいと考えていたとしたら、それはきっと素質や能力の面についてであって、現実に王に据えようとしなかったのは、それで彼女を縛り付けてはいけないと思ったからでは…。

(アホガラス 様)

A

確かに中盤までのナウシカからは、人間世界に対する責任から逃れたいという願望を感じます。
ですが私は、終盤(腐海の秘密を知って以降)のナウシカとそれ以前のナウシカを同列に論じることは出来ないと思います。
「嘘」をつき続けると決心した後のナウシカは、人間種族全体に対して自分が最も責任のある立場にある事を自覚し、その責務(指導者たること)を受け入れたと見ます。
皆と同じ立場で生きていきたいという願いは最後でも変わってないと思いますが、彼女にはすでに自分のしなければならない事(人類を導く事)が見えているので、執着はそれほど無いと思います。

また、クシャナがナウシカを公式に王に据えようとしなかったのは、それが全く意味の無いことだったからです。
しかし実質的には、ナウシカはすでにクシャナの中で、「王」という位置に据えられていると考えます。
旧秩序(墓所・神聖皇帝・ヴ王など)が崩壊した物語後の世界に再び秩序を築くには、トルメキア・土鬼両国(+辺境諸国)の混乱を同時に治める必要があります。
しかし、クシャナは土鬼を治める立場にありませんし、チククもトルメキアを治める立場にありません。
それが可能なのは、クシャナとチクク両者に絶対的な影響力を持つナウシカだけなのです。
クシャナは既にナウシカの思想を理解しているので、ナウシカはトルメキアをクシャナに任せ、自分はチククを一人前の指導者にするため土鬼に残ったと考えられます。
よって、公的な玉座や冠こそありませんが、私はナウシカこそ「新しい王」そのものだと思います。

 

王蟲の剣はカタイんか?

Q

第一巻で、クシャナの軍とナウシカが対峙したときに、ナウシカが使っていた王蟲の皮の剣の強度は、どの程度のものなのでしょうか?

(みじめで哀れな学生 様)

A

作中では「王蟲の甲皮」の特性として、「高い硬度と優れた弾性」という二つの要素が挙げられています。
硬度に関しては恐らく超硬質セラミックと同等、そして強度は他に類を見ないほど高いという、ある意味、夢の素材と言えるでしょう。
まぁ、ファンタジーにでてくるオリハルコンとかそんなよーなものだと考えればいいんではないでしょうか。

現実には、「硬さ」と「強度」は相反するものです。
つまり、硬度を上げれば強度が下がり、強度を上げれば硬度が下がるのです。
作中では、剣やヨロイ、その他の装甲などに用いられている主な素材として、宇宙船の外殻に使われていたという「超硬質セラミック」なるものが登場します。
セラミックは確かに金属よりも硬度がありますが、所詮は陶器と一緒なので、果物ナイフくらいならともかく、はたして長剣の刀身に使えるかと考えると、現実的には非常に疑わしいものがあります。

ちなみに、刀剣の中でも最も高度な製法で作られているのは、「日本刀」だといいます。
「硬くすると折れやすくなり、軟らくすると曲がりやすくなる」というジレンマを、「硬い心鉄を軟らかい皮鉄で包む」という革新的な発想で「ある程度」克服したのです。
ここから、一般に日本刀の特徴は「折れず、曲がらず」と言われています。
しかし、実際はこれにも限界があります。
確かに硬度が均一の刀身よりも、折れにくく曲がりにくくはなっているのでしょうが、それでも実戦で使えば大抵の場合、折れるか曲がるかするでしょう。
現に、かの新撰組が池田屋を襲撃した際にも、近藤勇を始め、ほとんどの隊士の刀が折れたり、曲がったりしてしまったそうです。
居合の試し斬りでも、下手な人がやると刀は簡単に曲がってしまいます。

Q

王蟲の皮の剣にトルメキア兵の斧を防ぐ強度があると思いきや、クシャナの居合い斬りで真っ二つにされてしまったりでよくわかりません・・・。
王蟲の皮の剣はすごくかたいとすると、剣を折ったクシャナが腐海二の剣士になってしまいます・・・。

(みじめで哀れな学生 様)

A

以前ネタとして書いた回答を、アーカイブ化を記念し、さらにストーリー仕立てにしてお送りいたします。)

セラミック時代終末期、最大の軍事国家 『トルメキア王国』。
そのトルメキア軍の中でも精鋭部隊として知られるのが、王族直属の親衛隊である。
元来、王族の親衛隊というのは貴族や上流階級出身のエリートによってのみ構成される、いわば騎士としては最高位の部隊だ。
しかし、クシャナをうとんじるヴ王や皇子たちは彼女に政治的な発言力を与える事を嫌い、クシャナ直属の親衛隊には没落貴族や田舎貴族出身といった、帝国内でもかなり微妙な位置づけの騎士たちを配属した。
ところが、これが裏目に出ることとなる。
没落貴族や田舎貴族たちは、普段から何かにつけ冷遇されていたので、ヴ王や他の貴族たちに対して二心を抱く者も少なくなかった。
加えて、クシャナは先代の王の血を引いた唯一正統な王位継承権者で、 それが故に彼女もまた冷遇されてきた事が、彼らの共感と忠誠心を呼んだのである。
結果、ヴ王の思惑に反してクシャナ親衛隊(ファンクラブ)と配下の第三軍は、トルメキア軍内でも最高の士気と練度を誇る部隊にまで成長した。

しかし、である。
貴族の子息とくれば往々にして、さしたる苦労も不自由もなく育ってきた「根性無し」が多いもの。
それは三流貴族の寄せ集め、トルメキア第三軍でも例外ではない。

クシャナ親衛隊に所属する装甲兵ゲルマ(仮)もそんなヘタレの一人だった。
屈強な精鋭が集う親衛隊内にあって、彼はいつも「軟弱なボンボン」と皆からバカにされていた。
彼はそうした屈辱の日々の中、「いつかはまわりを見返して、兄や姉たちにも認めてもらう」と名誉挽回の機会をうかがっていた。
そんな時に舞い込んできた任務が、ペジテから逃亡した反トルメキア勢力の追討作戦であった。
これは非常に重要な任務でありながら、親衛隊とバイトの蟲つかいたち(時給950円)
だけで達成せねばならないというものだった。
だが、これは言い換えれば、人数が少ないだけに手柄を立てるチャンスがより多くめぐって来るとも言える。
そして何よりも重要なのは、この作戦の指揮をクシャナ皇女が自ら執っているという点である。
つまり、ここで何らかの活躍を見せれば、それはクシャナに対する最高のアピールとなり、ひいては親衛隊内で確固たるポジションを獲得することにもつながるのだ。
まさに千載一遇のチャンスである。

そしてチャンスは、彼らの捜索が風の谷に及んだ時にやって来た。
風の谷に到着した途端、ガンシップを従えた風の谷の少女が彼らの前に立ちはだかったのである。
少女はひどく怒っており、クシャナと何やら言い合いをしている。
どうやらコルベットが畑に着陸し、作物がダメになったのが気に入らなかったらしい。
「畑の一つや二つで殺気立ちやがって・・・。まったく田舎者ってのはこれだから・・・。」と、事態をまるで理解していないゲルマ。
一方、少女の怒りは収まるどころかさらにヒートアップしていく。
コルベットから降りてきたバイトの蟲つかいたち(深夜以降は+100円)も、かなり嫌われているようだ。
そうこうしている内に、少女は本気でキレた。
蟲つかいの放ったオオナメクジにたかられたのが、心底イヤだったようだ。
彼女は剣を抜くと、その切っ先をゲルマに向け、今にも斬りかからんばかりの形相で詰め寄ってきた。
この時、若干ビビりながらもゲルマは思った。

「これは・・・こんな小娘に勝負を挑まれるとは・・・もしかしたらチャンスなのでは? ・・・つーか、負けようがないじゃん。 しかもこいつ、なんか重要人物っぽいから、ここで軽くひねって人質にでもすれば、殿下もスムーズに作戦を遂行できるかもしれない。 そしたら俺、大手柄じゃんっ!!」

少女を見て勝利を確信したゲルマは、今までついぞ見せた事のないような勇猛さで決闘に名乗りを上げた。

ちなみに彼には実戦の経験はない。
それどころか、「軟弱なボンボン」と呼ばれるだけあって、親衛隊の中でもその力は最弱を誇る。
装甲兵の標準装備である戦斧も彼の場合、見た目は普通だが、実は軽量化に軽量化を重ねた特注品なのだった。
また装甲は装甲で、これまた見えないところで改造ミニ四駆並みの肉抜き処理が施してある。
まさに匠の技である。
だが、武器や防具の軽量化は、ダイレクトに攻撃力/防御力の低下につながる。
この事に彼が気付いたのは、渾身の力で振り下ろした戦斧(2kg)の一撃が、少女にアッサリと止められてしまった時だった。
遅すぎる、あまりに遅すぎる開眼である。

事ここに至ってようやく、「あ、この娘、けっこー強い・・・」と気付いたゲルマだったが、真剣勝負の世界では一瞬の混乱が死につながる。
実際、彼にはその後、何が起きたのか分からなかった。
目の前から少女がフッと消えたと思った瞬間、首の後ろに猛烈な重みを感じ、そこで彼の意識は途切れた。
永遠に。

そしてここに、もう一つの悲劇があった。
普通、装甲兵は装甲の下に鎖かたびらを着込んでいる。
装甲の隙間への攻撃を防ぐためである。
しかし、極限まで軽量化した装甲ですでに限界のゲルマにとって、その下にさらに鎖かたびらを着るなど不可能な事だった。
そこで彼は鎖かたびらを着ずに、キルティングの鎧下の上に直接、装甲を着ていたのである。
もし彼が鎖かたびらを着ていれば、恐らくこの一撃での致命傷は避けられただろう。

そして・・・。
彼の亡骸は、ペジテの野戦墓地に葬られた。
花を手向ける者もいないその墓碑には、こう刻まれている。

「少女にタイマンで敗けた装甲兵、ここに眠る。」


(エピローグ)

ペジテのトルメキア軍宿営地にはゲルマの兄、グレン(第三軍第三連隊大尉)が駐留していた。
ゲルマ戦死の知らせを聞いた彼は、弟を失った悲憤のあまりクシャナに詰め寄る。

グレン: 「殿下っ!! ゲルマを・・・、部下を殺されておきながら、なぜ風の谷から撤退したのですかっ!?これでは辺境諸国を付け上がらせてしまいますぞっ!?」

クシャナ: 「グレン、・・・そなたの弟のことは残念に思っている。 だが、風の谷をあえて攻めなかったのも作戦の一部なのだ。」


グレン: 「しかし・・・それでは・・・ゲルマは無駄死にではないですか・・・! そもそも風の谷進攻は何だったのです!? なぜゲルマは死んだのですかっ!!?」

なおも食い下がるグレンの声は、近くの親衛隊の天幕にまで届いていた。
親衛兵たちは響いてくる声を聞くでもなしに聞きながら、ただ視線を下げたまま疲れに身をあずけている。

そして・・・・
ふと、誰かがつぶやいた。

「ボウヤだからさ・・・。」

それに応える声はない。


(風の谷の妄想劇場 : 終)

 

 

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