あとがき

 

 以上が原作版「風の谷のナウシカ」に対する私の解釈です。
 作品の解釈は人によって様々です。ですが、本作品が映画版とは全く別の本質を持った作品であるという点は一致した見解でしょう。原作を読んだ後に映画を見るとナウシカがまるで別人のように見えるのもその為です。原作を知る者は映画版を不完全な作品、もしくは全く別の作品と感じるのではないでしょうか。

 原作がここまで宮崎氏の自由になり得たのは、それが商業的にさほど期待されていなかったからでしょう。現在の宮崎作品のように、大々的に世に知られるような環境で執筆されなかったからこそ、これだけの作品になり得たと考えます。

 おそらく宮崎氏自身も、自分の思想を映像作品として遺したいと感じているでしょう。「もののけ姫」はそこから生まれたものと考えます。当時、彼は「もののけ姫」を自身最後の作品と言って制作しました。しかし彼がその後も引退せず制作活動を続けている事から、彼自身その出来に満足できなかったのではとも考えられます。他作品に比べ、いまいち評価されていない「もののけ姫」を見れば、ナウシカ映像化の困難さが想像できるでしょう。

 一般に観客は、「・・・そして悪者はいなくなり、みんな幸せに暮らしましたとさ。」といったような明解なストーリーを期待するものです。その点「もののけ姫」のラストは原作ナウシカ同様、曖昧さを内包した極めて抽象的なものでした。それ自体難解だった上に、鑑賞後に爽快感が得られなかった事も「もののけ姫」の人気が他より低いことに繋がっていると考えます。観客が宮崎作品(他についても言えることですが)に求めているのが「苦のない幸福」、あるいは「苦の先の幸福」である一方、宮崎氏の描きたいのは「苦の渦中の幸福」なのでしょう。

 「風の谷のナウシカ」に描かれた宮崎氏の思想は、仏教的な東洋自然主義と言えます。対象としての自然に人間自身も含ませ、生と死の関わりの中でそれを大局的に捉えるこの考え方は、現代において全盛を誇る「自然を人間と切り離し、人間の力でこれをコントロールする」という主旨の西洋自然主義とは根本的に異なるものです。対症療法的にある問題へアプローチした結果、それが解決しても副作用として別の問題が発生してしまうという欠陥は、一点に注目し全体を俯瞰しない西洋自然主義の限界だと言えるでしょう。
 人間の在るべき姿勢を自然全体の視点から描き出した「風の谷のナウシカ」及び宮崎哲学は、我々が如何に生きるべきかだけでなく、今後の人と自然の関わり方にも一つの解答を呈示していると私は考えます。