「語り残した事は多いが・・・」と結ばれているように、物語には最後まで明らかにされなかった点がいくつかある。 ここではその解明されていない疑問点・言及されていない命題について考察してみたい。
その4〜【その後の世界】
その1〜【番人はウソツキか】
クライマックスのナウシカと墓所の番人(ヒドラ)の対決場面。
番人は、墓所には旧人類を救済する手段がある、とナウシカに言う。
この言葉の真偽について読者の意見は分かれ、それがそのままナウシカの最終決断に対する賛否につながっている場合も多い。
この問題で焦点となるのは、『旧人類の新人類(穏やかな人類)化は可能か』という点である。
なぜなら、もしこれが不可能なら、たとえ清浄に適応する技術があっても、墓所はそれを旧人類に施したりはしないだろう。
人類が穏やかにならないのなら、世界が再建されたとしても再び戦乱によって破滅へ至る危険性がある。
墓所の主(計画の発案者たち)はこの人間の愚かさをもっとも恐れ、そして絶望していたのである。
それなら旧人類を切り捨てても、清浄な世界を新人類に遺したいと考えるのが自然だろう。
つまり、『清浄への適応』と『穏やかな人類化』はセットでなければならないのである。
さて、この『穏やかな人類化』。
庭園でのトルメキア皇子たちの劇的な変化をみると、それは可能なようにも思える。
それにもし世界再建計画に旧人類の新人類化が含まれていなかった場合、墓所の役割はただの『新人類の卵貯蔵庫』でしかなくなってしまい、あれだけのバイオテクノロジーを保持している事が不自然になる。
また、7巻200ページの番人の「交代はゆるやかに〜」という言葉をみると、旧人類の新人類化は始めから予定の内だったように思える。
おそらく世界再建の進行と並列して、生き残った旧人類は墓所で『清浄への適応』と『穏やかな人類化』といった処理を受け、少しずつ新世界へ移住させていく計画だったのではないだろうか。
また、この新人類化技術は墓所だけが持っていたと考えられる。
と言うのも、もし庭園にもその技術があったのなら、墓所壊滅後も庭の主が墓所の代行者として計画を推し進めていく事も可能になってしまうからだ。
いずれにしても推測の域を出ないが、ここでもう一つ別の視点から考えてみよう。
そもそも宮崎が描きたかったものは何だったのか。 「風の谷のナウシカ」が我々に何を見せたのか。
それは生命というものに対する決定的な信念である。
それは墓所の言葉の真偽などで揺れ動くような、曖昧なモノであってはならない。
汚染に適応した人類を元に戻す技術があろうが無かろうが、そんなことはナウシカと墓所の対立には何ら意味の無い事なのである。
両者の対立の本質は、「生命を作り変える行為」の是非、つまり、「生命に向き合う姿勢」の相違にある。
だからむしろこの場合、番人の言葉が真実であった方がより「確固たる意思」を示せるのである。
それに描かれ方を見ても、墓所の番人が口先で相手を言いくるめるような姑息な人物(?)には思えない。
彼(?)は明らかに確信犯である。
さらに言うならば、「風の谷のナウシカ」という物語が最も深い意味を持ち得るのは、墓所の言葉が真実であった場合なのである。
その2〜【旧人類の存在意義】
墓所の建造者たちは浄化後の世界のために新人類も造ったが、それなら何故ナウシカら汚染に適応した人類も造ったのか。
いずれ不要になる旧人類をあえて残したのは何故か。
結論を先に言えば、これは単純に「火の七日間」後に生き残った人類をそのまま作り変えただけだろう。
墓所や庭園を建造し、新人類の卵も造った時点で世界再建計画における旧人類の存在理由はほぼ無くなったと言える。
しかし、だからといって「それじゃあ皆さん、死にましょうか」となるはずもない。
生き残った人間たちも、何とかして生き延びたいと願うはずである。
よって彼らは新しく汚染適応人種を造ったのではなく、自分たちの身体を少しいじっただけと考える。(⇒B7/P-130)
方法としては、庭園の主がナウシカの身体に細工したのと逆の作業である。(⇒B7/P-129)
計画者たちにとって旧人類が生き残ったなら再び改変すれば良し、滅んだならばそれもまた想定内なのだろう。
その3〜【巨神兵と墓所】
巨神兵と墓所は、実際の所どういった経緯で作られ、お互いにどういった関係だったのだろうか。
とりあえず、この疑問を解くカギになりそうないくつかのセリフを挙げてみる。
@ 「いまはあの二人が生かすにあたいするかどうか観察している」(第七巻P-51/オーマ)
A 「ありとあらゆる宗教。ありとあらゆる正義。ありとあらゆる利害。調停のために神(巨神兵)まで造ってしまった」(同P-199/墓所の番人)
B 「とるべき道はいくつもなかったのだよ」 (同P-199/墓所の番人)
C 「(墓所に対して)お前は千年の昔 沢山つくられた神の中のひとつなんだ」(同P-200/ナウシカ)
D 「世界を亡ぼした怪物を呼びさますのはやめろ!!」(同P-208/墓所の番人)
以上のセリフから明らかになるのは、以下の通りである。
・墓所が「火の七日間」後に建造された事。
・墓所建造の直接の原因が、「火の七日間」による生存可能地域の著しい縮小である事。
・巨神兵と墓所に戦略上の関連がまったく無い事。
これらを踏まえて、旧文明が滅亡に至った経緯、及び巨神兵と墓所が建造された経緯を推察してみる。
まず旧文明の末期、世界は極度の人口増加によって、土地や資源をめぐる紛争が世界各地で発生していた。
これらの紛争を鎮圧し、かつ再発を予防するため、圧倒的な武力を持った中立で公平な第三者として「巨神兵」が造られたと推測できる。(役割的には「沈黙の艦隊」に近い)
一体だけではシステムとして安定しない為、大量に量産される。
巨神兵たちは皆、一致した判断基準のもと世界中の争いを調停・裁定する。(異なる基準を持っていたら巨神兵同士の争いになりかねない)
あるいは(B6/P-155でナウシカがオーマの声を王蟲の声と間違えている事から)巨神兵たちは王蟲たちと同様、精神を共有していたのかもしれない。
この計画(便宜的に巨神兵計画と呼ぶ)の対象が全世界に及んでいることから、この計画の実行者が国連のような国際機関であったのは確実だろう。
しかし、@のオーマのセリフは調停者としてのものではなく、それ以上の裁定者としてのペルソナによるものである。
国連が裁定し、巨神兵に紛争を調停させるなら、巨神兵に裁定者としての機能など付けるはずが無い。
「裁定」という役割が意図しているのは、「良い者と悪い者を選り分ける」という作業である。
この「裁定」という役割を鑑みるに、巨神兵は紛争を鎮圧する過程で、かなりの広範囲にわたって戦争責任を追及し、断罪していったと考えられる。
これには増えすぎた人類を間引く意図もあったと思われる。
では何故、ただの兵器ではなく、自我を持った巨神兵なのだろうか。
この疑問点を説明しうるキーワードが、『宗教』である。
そもそも世界の司法を司るような者たちが、人類が多すぎるからといって無差別殺戮に踏み切るとは考えにくい。
しかし、ここに宗教的な思考が加わるとあり得ない話でもなくなる。(人間は神の名の下でなら、いくらでも残虐になれる事は歴史が証明している)
いくら多過ぎるとは言え、人間を大量に殺すには絶対的な大義名分が必要である。
それには宗教的正義を司る人間以上の存在が最適だったのだろう。
人が人を殺すのではなく、神の正義が人を殺すのだから、良心の呵責も感じずに済む。
Cのセリフを見るに、旧文明末期では思いのままに生物を作り出すことが可能であった為、人間以上の存在を作り出し、それに世界の管理を任せることがある種のブームになっていたのかもしれない。
しかし、当然のことながら巨神兵を生み出した国々は、自分たちが裁かれる事がないようにプログラミングしたはずである。
にもかかわらず、全世界を焼き尽くすほどの大破壊が起きてしまったのは、巨神兵を造り出した者たちにとっても致命的な誤算だったはすだ。
全ての紛争を調停し、人類の選別ができたとしても、住む土地が無くなってしまったら元も子もない。
つまり「火の七日間」は何らかの原因により、誰にも巨神兵を制御できなくなってしまった為に起きた可能性が高い。
もしかしたら巨神兵たちは、「人類に生きる価値無し」と判断したのかもしれない。
「火の七日間」という予想外の大戦によって人口問題は消滅したが、皮肉にも「生存可能地域の極端な減少」という新たな問題に人類は直面した。
この致命的な問題を解決するため、Bのセリフにあるように、生き残った人類は「世界再建計画」を立案する。
同時に、このような惨劇が再び起こらないよう、再建される世界は従来のものとは全く異なる発想のもとにデザインされる。
「穏やかな人類」や「従順な動物たち」がそれである。
計画の推進者たちは墓所と庭園を建造し、生み出した新人類(卵)と保存すべき動植物をそれらを収める。
その後、人類は自分たち人間を含め生き残った動植物を、汚染された世界に適応できるよう改造する。(旧文明の技術が火の七日間直後はまだ残っていて、以後徐々に失われていった事はB2/P-088の大ババの言葉でわかる。)
私にはこの発想が、極めて宗教的、それもキリスト教的であるように感じられる。
「火の七日間」から「世界の再建」に至る一連の流れが、旧約聖書にある神話『大洪水とノアの箱舟』と非常に似通っているからだ。
当時、人類は自分たちではどうにならないほど絶望的な状況にいた。
数え切れないほどの問題を抱えながら、それらが解決されるどころか悪化・増加の一途をたどる現状に、人類は理想とはほど遠い世界の姿と、そして自分たちの存在そのものに深い絶望を感じていたのではないだろうか。
そして、いつまでたっても訪れない救済・神の不在を嘆くあまり、自ら神を生み出してしまった。(この場合、よりキリスト教的に言うならば唯一絶対の「神」そのものではなく、「神の正義の代行者=天使」といった方が近い。)
つまり、全てをぶち壊して、一から世界を創り直そうという発想である。
置き換えるなら、「大洪水=巨神兵」、「ノア=墓所・ヒドラ」、「箱舟=庭園」となる。
ただ巨神兵計画にせよ、墓所の計画にせよ、それが全て旧文明の人々が計算して推し進めたものではないように思われる。
それは、番人が旧文明の人間を含めた人類全体に対して、冷めたというよりもある種、見下した態度をとっているように感じるからだ。
やる事なす事が全て裏目に出て、結局、終末時計の針を早めているだけでしかない。
番人の視線は、そんな破滅への道をひた走る人類への諦観に満ちている気がする。