まとめ

 

 最後に結論として、ナウシカの決断の是非について考えてみよう。
 彼女の決断が「正しかったのか、正しくなかったのか」についての見解は、いまだもって真っ二つに割れている。 それはナウシカがこれを(人類の存亡に関わる重大事であるのに)独断で決定したことにもよるだろう。 そこで先ず、肯定・否定両派のよく見られる論旨を主観的にまとめてみる。(あくまで一般論について)

 肯定派は墓所が諸悪の根源であるから、これを破壊するのは当然と主張する。
 確かに墓所がなければトルメキア戦役も大海嘯も起きなかったかもしれない。 生命の尊厳を守るという意味からも、墓所は肯定できない存在である。 墓所の番人の言葉、「汚染に適応した人間を元に戻す技術もここに記されている」に対する不信にも一因があるだろう。
 だが墓所が無くなった事で、
人類が浄化後の世界で生き延びる可能性が不透明になったのも事実である。 そこで肯定派はその後の人類の自然な適応を信じ、またナウシカもそれを意識していたと楽観的に解釈する。

  一方、否定派は墓所の弊害を認めつつもこれを必要な犠牲と受け止め、人類が生き延びるには墓所が不可欠であると主張する。
 「墓所に従っていればいずれ世界は清浄に戻り、人類もおだやかな種族として生まれ変われる。 過程に多少問題はあっても、人類がずっと夢見てきたユートピアが実現できるのだ。 だが、ナウシカの決断によって人類の滅亡はほぼ確定してしまった。 よってナウシカの行動は人類に対する裏切りである。」というのがその主旨である。
 背景には、独断で勝手に人類の未来を選択してしまったナウシカに対する反発感情もあるだろう。

 両者の対立は結局のところ、「墓所が無くなって人類が生き延びられるか否か」といった結果論的見解の相違でしかない。
 だが、この対立を解消しうる明確な解答は存在しない。 どこまでいっても平行線である。 なぜなら「風の谷のナウシカ」は宮崎駿という人間の描いた物語であり、第七巻の223ページ目で終わっているからである。 つまり『千年後』など無いのである。
 宮崎がエピローグに、「人類は浄化後の世界に気合いで適応し、末永く幸せに暮らしました。」とか「人類はがんばって千年生きましたが、やはり浄化後の世界には適応できず、腐海や蟲たちと共に歴史の彼方へ消えていきました。」などと書かなかったのは、それが重要な問題ではないからである。 生き残るか滅亡するかは『結果』でしかない。
 我々は常に望ましい結果を引き寄せようと行動するが、望ましくない結果に終わる事もしばしばである。 つまり我々は『行動』を決めることはできるが、『結果』を決めることは出来ないのだ。
 これを踏まえると、「それはこの星が決めること」というナウシカの台詞(P-201)は、「結果に執着するより行動に集中せよ」という宮崎のメッセージととれる。 人間、最善と思える事をやっておけば、どんな結果になろうとさほど後悔はしないものである。
 しかし、墓所はその『経過の時代』に生きている者を無視し、結果にしか関心を払っていない。 これもナウシカと墓所の決定的な対立の一因である。

 さらに言えば、墓所との対決時、ナウシカは人類の代表ではなく『生きとし生けるもの全て』の代表として振舞っている。 だから人類だけに都合よく創られた世界などには何の価値も感じていない。 人類の生存を至上命題としたり、ナウシカの行為を人類への利害で計るような思考、すなわち人間を世界の中心に据えた論理は墓所を造った者たちと同じ論理である。

 文明が発達し、人間が環境をある程度思いのままにできるようになった頃から、人類は自然の中に神や精霊を見なくなった。 今まで自分たちを包み、支配してきた自然に逆らっても生きられるだけの力を手にしたのである。 しかしそうなると、今度は逆に自分たちが自然の支配者であるかのように振舞い始める。地球上の全てを自分たちの所有物と錯覚し、利害計算でその存在価値を決めていく。 その結果、自分たちもまた自然の一部であると言う当たり前の事実を見失ってしまったのである。
 この流れの根底にあるのは人類の自律・自己決定欲求だろう。 それ自体は悪いものではない。 むしろ主体的な進歩のためには必要不可欠なものである。
 だが自分たちの立っている土台をかえりみない身勝手な自己主張は、第二次反抗期のツッパリ少年と何ら変わらない。 単純に己を知らないのである。
 大抵の不良少年は痛い目にあったり、様々な経験をしていくことで徐々に現実に目覚め、自分が特別な存在ではないという事に気付いていく。そして更生し社会の一員となるのである。人類の歴史もおおむねこれと同じ道をたどっていると言えるだろう。(要約すると「現在の人類は頭の悪いヤンキー兄ちゃんである」となる。)
 自分をその一部に含む集合体(自然)に反抗し、自分が特別だと思い込み、世界の主であるが如く振舞っているのが今日の人類である。やがて痛い目に会い、認識を改めなければならない日が来るとすれば、『火の七日間』及び『黄昏の世界』はまさにその仮想である。

 ナウシカの決断は人類の命運を星に託す、いやむしろ、『返す』行為である。 これは人類を世界の中心とする思考を捨て、自然全体の一部分と認識し直し「更生します」という意味を持っている。 言ってしまえば、ナウシカにとっては人類の滅亡も極めて局所的な出来事でしかないのである。
 そもそも生態学的に言えば、食物連鎖の頂点に位置する種は世界の中心から最も外れた場所にいるはずである。 なぜならピラミッドの頂点は、下位に位置する全ての生物・無生物に依存して成り立っているからだ。 つまり、現実に生物世界の中心に位置しているのは微生物や植物などの、人間が最も下等だと捉えている生物たちなのである。

 そしてもう一つ、理想とする世界像の違いが挙げられる。
 墓所が呈示した理想的な世界は、緑あふれる大地にたくさんの動物たちと穏やかな人類が共存する楽園として描かれている。 人間は賢く、怒りも憎しみも競争心すらも持たない。そこに争いは無く、獣は人の為に働き、人は音楽と詩のために生きる。 その平和が変わることなく延々と続いていくのである。 これを理想の世界と感じるかどうかは人それぞれだろうが、少なくともナウシカ(宮崎)はそう考えていない。
 世界は常に揺れ動いているのが自然なのである。 戦争が起きれば平和への機運が高まり、平和が長く続けば戦争の恐怖は忘れられる。 たとえ延々歴史を繰り返したとしても、それが在るがままの世界であり、(理想的とは言いがたくとも)在るべき世界なのだろう。
 ナウシカは愚かな部分も醜い部分も人間の一部として理解している。 そして人間の進歩は、こういった欠点の認識から始まる。 しかし、墓所の思想はこれらの部分を決定的に無視した結果であり、それは現実からの逃避、あるいは敗北とも言える。 「穏やかな人類」という発想も、欠点の克服や成長の努力を放棄して、問題そのものを根本から抹消してしまおうという機械論的な思考である。例えるならこれは、醜い人類という種自体を美容整形してしまおうというような論理である。
 世界再建計画も同様で、『旧約聖書の大洪水』のように「世界を一度滅ぼして、また一から新世界を創り直そう」という、実在を完全に否定・放棄した思考である。 これは
言わば、「トイレでウ○コを流すように、汚いモノを全て洗いざらい水に流してしまおう」、というのと何ら変わらない。(ちょっとお下品なたとえだが) しかし、そのような論理など、流されるウン○(ナウシカたち旧人類)の立場にしてみれば、到底受け入れられるものではない。
 「理想の世界の建設にとって、あなたは邪魔だから死んでください。」と言われて、「ハイ、わかりました。」と即、首を吊れる人間が居るだろうか。仮に居たとして、そんな人間は果たして賞賛されるべき存在だろうか。 たとえ全宇宙に否定されたとしても、自分の存在だけは肯定し続けるのが『生きる』という事ではないのだろうか。
宮崎のこの主張が難解であったため、本来否定されるべきものとして登場した墓所の理想が、皮肉にも否定派の心を捕らえてしまったのだろう。

 この対決を通してナウシカが示しているのは、人間の愚かさに対する諦観ではない。ましてや人間の業でもなければ、人類の未来でもない。そもそも人間に限定した物事を語っているのではない。ここでナウシカ(宮崎)が提示しているのは、「相反する二つの原理は、実は一つの実体の異なる発現である」という真理である。
 「清浄と汚濁こそ生命」「苦しみや悲劇と喜びや輝き」「闇の中にまたたく光」など、こういった二元論からの脱却・止揚は物語を通して随所に垣間見える。現実を拒絶して理想を追うのではなく、かといって理想を捨てるのでもない。理想と現実という二つの重荷を同時に背負う事が、本当の意味で「生きる」事なのだと言っているのだ。

 「ナウシカ」にせよ「もののけ姫」にせよ、結末はすっきりしたものではなく、先行きも不透明なものとなっている。現実の我々の人生においても、未来に対する不安は常に付きまとう。

「不安も絶望も背負って、それでも力一杯生きろ。」

 これが宮崎の最も言いたかった事なのではないだろうか。