コラム

 

ここでは「風の谷のナウシカ」を読んで、管理人が個人的に感じた事や考えた事なんかを書いています。
ただし、ほとんど自己満足で書いたものなので、わざわざ読むほどのものでもありません。

 

その1〜【友愛は憎しみを超えるか】
  このナウシカ(宮崎)の訴えかけは、現実の紛争解決に対しても有効なものだろうか。
作中での土鬼とトルメキアの対立の主要課題は土地問題である。
確かに少なからぬ憎しみもあろうが、もはや両者とも憎しみだけで戦争を続けられるほど余力のある状態には無いのである。
これは現実の戦争と何ら変わるところが無い。
人類史始まって以来、数えきれないほどの戦争が起きてきたが、純粋にイデオロギーや宗教の対立によるものが一つでもあっただろうか。
どの戦争も本質的には集団同士の土地や資源の争奪ではなかったか。
イデオロギーや宗教、人種に文化といった違いは、それらの集団の単なる枠組みでしかないのではないだろうか。
 イスラエル・パレスチナ間の紛争を例に挙げてみる。
これは両者の聖地を舞台としているだけに、極めて宗教色の強いものである。
対立は憎しみと報復の連鎖となり、悪循環の典型のような様相を呈している。
イスラエル軍による理不尽な攻撃とパレスチナ過激派による無差別テロによって戦況は泥沼化して久しい。
だが、この対立の根源は土地問題にある。
イスラエルのユダヤ人にしてみればイスラエルは長年の悲願が叶い、やっと手にすることが出来た自分たちの国である。
イスラエル建国の経緯がどうであれ、そこに住み始めてしまった以上、彼らが死に物狂いでそれを守ろうとするのは必然といえる。
それを正当化する為に「パレスチナは神がユダヤ人に与えた土地」というユダヤ教の伝承を利用していると見ることもできる。
 一方、パレスチナ人にしてみればイスラエルはまさに異教徒の侵略者・略奪者・抑圧者である。
さらにパレスチナ人は現在も進行形で土地や自由、そして生命を奪われ続けている。
彼らの思考がイスラムの教えと密接に結びついてる事を差し引いても、闘争を続けるのに十分な動機であろう。
仮に皆がそれぞれの生活に何ら不満を持っていなかったとしたら、たとえ宗教的に相容れなかったとしても命を捨ててまで戦うだろうか。
殉教作戦(自爆テロ)の実行者のほとんどは妻子を持たない若者である。
彼らは恐らく同一性を模索している過程で、宗教へ過度に傾斜してしまったのだろう。
家族を養うべき立場にいる者はその責任感自体が同一性となっている為、その家族を皆殺しにでもされない限りは自爆テロなど企てたりしないと考える。
 そもそも基本的に感情というものは長続きしない。
憎しみであれ喜びであれ、怒りであれ悲しみであれ、それを維持するには継続した刺激が必要である。
にもかかわらず紛争というものが一様に泥沼化する理由は、それによって利を得、混乱を助長している者がいるからだと考えるのが自然である。
平和の実現には多くの犠牲と労力、そしてそれを望む多数の人間(特に有力者)を必要とするが、逆に平和を破壊するにはそれを望むごく少数の煽動者(彼らは大抵有力者である)だけで十分なのである。
 ナウシカは土鬼の民衆に対して「憎しみを捨てよ」と倫理面から訴える一方、彼らの抱える現実問題(住む土地を失ったこと)に対しても解決策(腐海のほとりに移り、辺境諸国の援助も受けながら平和に暮らす案)を呈示している。
ここでナウシカの説得が有効なのは、土鬼の民衆が戦乱に疲れ果て平和を切望しているからであり、またナウシカが風の谷の族長として辺境諸国に土鬼難民の受け入れを働きかける事のできる立場にいるからである。
よってこの時点での障害は実質、ナムリスただ一人である。
だがもしナウシカが何ら有効な解決策も、また「使徒」としての地位も持たず、土鬼民衆たちの多くがトルメキア進攻を望んでいたとしたら、彼女の説得は完全に無視されていただろう。
 「憎しみより友愛を」は真理であり、思想の中核であるべきものだが、それだけでは現実に対して無力であるのも事実である。

 

その2〜【自殺について】
 ナウシカにとって生きる事からの逃避としての死は決して受け入れる事の出来ないものである。それは生の否定であり、死の濫用であるからだ。
そこで死にたがっている人を前にした時、ナウシカなら何と言うかを対話形式でシミュレートしてみる。

ナウシカ :
どんなに苦しくても私たちは生きなければならない。 私たちは今、ここで生きているのだから。

絶望する人 :
生きているからって何故、生き続けなければいけないんですか? 私の人生、生きていても面白い事なんてもう何も無いのに。
このまま虚しく生き続けるだけなら、別に今終わらせても
同じじゃないですか。

ナウシカ :
同じじゃない。 あなたはまだ生きているんだから、いくらでも変われる。 幸せになる方法なんて無限にある。
それに苦しみのない生なんてどこにも無い。 もしあったとしてもきっと虚しいだけでしょう。
苦しみも生の一部として受け止めなければならない。 そうして生きる事ができれば、必ず喜びも見つけられる。

絶望する人 :
もう疲れたんです。 苦しみも喜びも、もう飽きたんですよ。
それに私が死んでも誰も気にかけないだろうし。 私はもう誰からも必要とされてない人間なんですよ。

ナウシカ :
他人にとっての価値なんて関係無い。 あなたの意味はあなたが決めるしかない。
あなたにしか決められないの。

絶望する人 :
だから決めたんです。 無価値だって。
他人にとっての意味だけじゃなく、私自身にとっても「私」という人間は無意味なんです。
そもそも生きる動機が無いんですよ。
夢も希望も無い。
そりゃあ、確かに少しは楽しい事もありましたよ。 でも全部ひっくるめてトータルに言って、今の人生なんてウンザリなんです。
何の目的も持てずにただ息をしているだけじゃ生きてるって言えないでしょ? だから私はもうとっくに死んでるんです。

ナウシカ :
あなたは死んでない。 そうして苦しんでるのが何よりの証しです。 心の底で生きたいと願っているから苦しんでいる。
それに生きる目的なんて、あなたが自分と向き合いさえすれば幾らでも見つかる。 あなたはあなた自身を狭い世界に閉じ込めているだけ。

絶望する人 :
何をしても変わりませんよ。
どんなに願っても、なにを犠牲にしたとしても、それこそ世界の中心で叫んでみても、どうにもならない事がこの世にはあるんです。
昔は大事なものがあった。 幸福に感じた瞬間もあった。 でも今は無い。
失ったものは帰らないし、やり直す時間も手段ももう無い。 気力すら失せた。

ナウシカ :
私たちの日常は、何かを得る事と失う事の繰り返しの中にある。
私たちは最初、生命だけを持ってこの世界に生まれてくる。 そしてたくさんのものを手にしていく。 でもそれらはいずれ失われる。
最後には生命だけが残り、その生命を使い果たした時、私たちは虚無に帰っていく。
失ったものを嘆いても何にもならない。

絶望する人 :
じゃあ、希望の存在しない世界であなたは生きられるんですか?
例えばもし不治の病に侵されてあと半年しか生きられない、その半年も苦痛に満ちたものになる事は疑いないとしても、絶対に安楽死を望まないと言い切れますか?

ナウシカ :
そうなってみないとそれがどんな感じなのかはわからないでしょう。
でも私は生きます。 私に残されたものがどれほど少なくても、残った私で生きる。
だって「生きてる」って事は、星が「生きろ」って言ってる事なのだから。 最期は星が決めてくれる。 私は精一杯生きるだけ。
それに永遠の夜でも喜びはきっと見出せる。 たとえ苦しみしかなくても、それには必ず意味がある。 この世界に意味の無いものは存在しないのだから。

絶望する人 :
仮に私の苦しみや絶望にも何か意味があるのだとしても、私自身にとっては無意味なんですよ。
大体、私の生命は私のものでしょう? なら何に使おうが、捨ててしまおうが私の自由だと思います。

ナウシカ :
確かにあなたの言う通り、あなたの生命はあなたのものです。 どう使うかもあなたの自由。
でもそれはあなたが生きようとする限りにおいての事。 むしろ、あなたの生命は「あなたの」というよりも「あなたの生命自体」のものと言えます。
生命はいつだって生き続けようとしている。 だから私たちは生命を捨てる自由を持ってはいないのです。
私達の生命が私たち自身の意志の外で発生したように、私達の死も星の意志によるものでなくてはならない。私たちは死という概念を知っている。でもそれは決して死を利用していいという事ではないのです。

絶望する人 :
つまり私には死ぬ自由も苦しみから逃げる自由も無く、あるのはただ我慢し続ける自由だけって事ですか? そんな人生、ヤです。

ナウシカ :
それはこの世界が持つ残酷さでもある。でもその残酷さが生命の輝きを生み出すのです。たとえ今、あなたの目に一筋の光も見えなくても、光は確かにある。光と闇は二つで一つなのだから。そして闇が深ければ深いほど、光も生命も輝きを増す。そこで得られる喜びはきっとあなたの心の礎となるでしょう。その時には絶望の意味、あなたの人生の意味にも気付くでしょう。 だからそれまで生きることをやめないで。

今はただ想像してみてください。
風の匂い、皮膚の痛み、哀しみ、たくさんの思い出、雨の音。
あなたが今感じている全てが永遠に感じられなくなる事を。
死ぬという事は未来はおろか、絶望すら失う事なのです。
それは本当にあなたの望むものなのですか?


  以上はナウシカ(宮崎)の論理をそのまま対話形式に変換したものであるが、あらためて読むとほとんど慰めになってないところがミソである。
この論理は同種の問題に対する唯一の答えではあるが、残念ながら即効性は無い。 シェマの抜本的な改変を要求するからである。 そして、この改変作業には長い年月を必要とする。
  しかし、カウンセリングの本質は一時的な希望の提供ではなく、根本的なものの考え方・感じ方を徐々に現実に適応させていく事にある。
そもそも「生きる事は楽しい事であるはずだ」という前提を持ち続けているから、何か悲劇的な出来事が起きた時に認知的不協和が発生するのである。
だが、仏教のように始めから「世は無常、人生は修行である」と割り切る事ができれば、人生に対して幻想を抱くような事も無く、未来に対して過剰に期待する事も無い。
 つまり絶望に立ち向かう最後の武器は、「悲しみをも愛する」ことなのである。

 

その3〜【命の意義】
  思弁的な考察だけでは空虚なので、ちょっと個人的な経験に基づいた感覚を書いてみる。

 本文は北海道の山の中で書かれた。半径20kmに民家は無いが近くには湖があり、そこで魚を釣り食料に足しにしている。そして食べ残しや生ゴミなどは湖に捨てる。
生ゴミはともかく食べ残しに関して言えば、ここが街であったら食べ物を粗末にする行為として非難されるべきものだろう。
また勝手な都合で命を奪っておいて全部食べずに捨てるなど、殺された魚にしてみれば呪いたくなる所業に違いない。
だがふと、こういった考え方は食糧不足に悩む社会や、食べ物がほとんど全て金銭と交換する事で入手される街でしか通用しないのではないかと思った。
つまり「食べ物を粗末にするな」という戒めは、生命観の問題ではなく経済的な問題なのではないかと。

 ここでは食べ物は時間や労力と引き換えに(人間一人が必要とするだけなら)ほぼ無尽蔵に手に入る。
また、街では『廃棄』はそのまま『損失』を意味するが、ここでは山火事でも起きない限り『損失』と言うものはあり得ない。
食べ残しや生ゴミ、古くなった食料を湖に投げ込めば瞬く間に小魚やザリガニが、さながらバーゲンセールに殺到する中年女性の如く群がり、数分後には綺麗さっぱり処理してくれるのである。
つまりここでは私が食べなければ他の者が食べるだけなのだ。
捨てた魚はザリガニや小魚をエサに釣ったものだ。 それが今度は逆に彼らの腹を満たしている。
ここには無駄というものが無いのだ。
生きようが死のうが、食べようが食べられようが、この森からは分子の一個さえ減りはしない。
あるとすれば『生命』だけだが、今この森で生命の概念を持っている生き物は私だけである。

 ここで生活し始め、自分の中で生命の概念が変化してくるのを感じる。
一般的には、「生命はかけがえの無いものであり、最も尊重すべきものである。」となっている。
だがここの生き物たちを見ていて感じるのは、むしろ「生命は簡単に生まれ簡単に死ぬ」というナムリス的な現実である。
生命はそれほど絶対的なものなのか。
我々は生命そのものを過大に評価するあまり、「生きる」という本題から視線がそれてしまっているのではないだろうか。

 また近代社会は「死」や「殺す事」を否定的に捉えがちだが、森の生き物たちにとって「殺す事」と「食べる事」は完全に同義であり、すなわちそこには一切の否定が存在しない。
実際生命を奪うことは、ここでは生活の一部である。一つの死が直接他の生命を潤しているのだから、むしろ他者の死は歓迎すべきもののようにも見える。
さらに森の視点から見ると、個々の死には意味が感じられない。
これは殺すこと、食べること、食べられること、死ぬこと、が全て『物質の循環』を意味し、この循環こそが集合体としての『森』の活動であるからだと考える。

 たとえばここで私が熊に襲われて死んだとする。
その場合、私の身体はその熊に食われ、キツネに食われ、さらにネズミや虫にもかじられるだろう。
仮に湖で溺れ死んだとしたら、小魚やザリガニたちがきれいに始末してくれるだろう。
いずれにしても喜びこそすれ、私の死を悲しむ生き物は一匹もいないはずである。
つまり客観的に言って私の生命、私が生きている事は私自身にとってしか意味はないのである。
だがこれは森に限ったことだろうか。
私には人間界も含めた世界全体が、これと同じ原理の上に成り立っているように感じられる。

 多分、宇宙は人間が考えるほど生命というものを重要視していない。
誰かが死んだからといって、それで宇宙が壊れるわけでも、その分だけ宇宙が小さくなるわけでもないのだ。
だからこそ我々は、生命の意義を自分たち自身で決定しなければならない。
他に決めてくれる存在などいないのだから。