第四巻

 

<P-012>
チヤルカが公正な人物であることがわかる。

また、「土鬼諸侯国連合」が対立する諸部族を束ねて構成された、モザイク国家であることが明らかになる。
現在の中東・アフリカ諸国の状況に似ている。

 

<P-014>
チヤルカがミラルパの方針に疑問を持ちながらも忠実に従っていることから、彼が僧会の一員としても個人としてもミラルパに忠誠心を持っていることが感じられる。

 

<P-016>
ナウシカの行動がますます使命感に後押しされたものになってきている。
反面、様々な悲劇が彼女を駆り立て、追い詰めていっている様にも感じられる。

 

<P-017>
一人旅立つナウシカ。これが本来の彼女の旅である。

 

<P-021>
変異体の苗を見て悪寒を感じるチヤルカ。
異形の生命に対する生理的な恐怖感、腐海を人工的に作り変え利用することに対する危機感やタブー意識がうかがえる。

 

<P-022>
ミラルパの素顔が明らかになる。それは身体だけでなく精神をも不治の病に侵された末期的な人間のものであった。
彼の政治理念は、「放置すれば勝手に殺し合いを始める愚かな民衆を、皇帝への崇拝と恐怖によって抑制する」といったものである。(これはほとんどの独裁国家に見られる手法である)
後に出てくるように(B6/P-153)、以前は大衆の尊敬と崇拝を集めることに重点を置いていたのだろうが、時が経つにつれ徐々にそれが恐怖の方に比重移動したと考える。

< 同 >
チヤルカはただ国土と民、そして信仰(=ミラルパ)にのみ関心を持っていると見る。
彼はそれらの板挟みになり、苦悩している。

<P-028>
腐海が大地を浄化している事、またそのメカニズムが正式に判明する。
同時に「腐海の尽きる所」の存在もほのめかされる。

 

<P-029>
「青き衣の者」が過去にも存在したことが判明。
また、セルムの言葉から「青き衣の者」が救世主ではなく預言者的な存在であることがわかる。
預言者に求められる資質は(神のお告げなどの神秘主義的なものを除けば)、誰よりも優れた大局観と先見性、そして私心の欠如であろう。

 

<P-031>
セルム(森の人)ガイア説的運命論者であることが読みとれる。
ただ、ガイア説が無機物も含めて考えるのに対して、セルムは腐海の植物と蟲たちの集合体として「森」という表現を使っている。よって厳密にはガイア論の縮小版と言うべきだろう。
また、「森の人」が単に「森に住んでいる人」ではなく「森の一部をなす人間」であることがわかる。

 

<P-033>
巨神兵を運ぶ土鬼の船団と遭遇するミト。
この時点で巨神兵が土鬼に奪われていることが判明する。
また、
この空域はペジテと酸の湖の間、つまり辺境諸国のすぐ近くと推測される。
作中に描かれてはいないが、ミラルパが登場して以降のいずれかの時点で、ペジテが土鬼の手に落ちたと考えられる。
ヴ王も巨神兵のあるペジテには少なくない規模の防衛部隊を配置したはずではあるが、それでもあっさり奪われているのは多少不可解である。

 

<P-035>
この船団の主力が僧兵であることから、以下の流れが推測される。
まずミラルパが前線に現れた理由は、親衛隊を率いて自ら巨神兵をペジテから奪うためだった。
しかし青き衣の者(ナウシカ)の出現をより重く見、親衛隊を二つに分け、片方にマニ族とペジテ進攻を命じ、もう片方を自ら率いてナウシカの向かったサパタ方面へ向かう。
おそらく、クシャナとチヤルカがサパタ攻城戦でやり合ってる同じ頃、もう一つの親衛隊がペジテを攻略し巨神兵を奪ったと思われる。

 

<P-040>
巨神兵輸送は僧会の指揮・監視の下、マニ族が行ってることが判明。
僧正がミラルパに反抗した償いとなっているが、そんな不穏分子をこのような重要任務を任す
事自体、不可解である。

 

<P-055〜057>
一匹の死に対し、それを大幅に上回る犠牲をもいとわず復讐する蟲たち。
実在するどの生物にも見られない非合理な性質である。

 

<P-060>
クシャナが将軍ら権力者を嫌悪する一方、一般兵らには仲間意識を持っている事がわかる。
もはやこの時点で、当初のトゲトゲしい雰囲気は完全になくなっている。

 

<P-066>
クシャナの兄の重コルベット。立派である。
ちなみにクシャナのコルベットは将軍以下であった(B3/P-105)。露骨に窓際族のような待遇である。

 

<P-069>
クシャナの兄(おそらく三男)登場。
ビジュアル的に重要な人物ではないことは明白である。豪奢ないでたちと肥え太った体形は先の将軍同様、腐った権力者の象徴だろう。

 

<P-070>
クシャナの母について初めて触れられる。
クシャナと皇子たちが異母兄妹であることが判明。
もし実の兄妹という設定だったら、遺伝学的に作品中最大のミステリーになっていたかもしれない。
このことから、
クシャナの母が相当キャラの強い遺伝子の持ち主であることが推察できる。

< 同 >
母を侮辱されキレるクシャナ。初めて感情を露わにするその姿から彼女の内面を垣間見ることができる。
言葉遣いからも、彼女が母に対して無上の愛を抱いていることがわかる。
おそらく母親だけが唯一、幼少時代のクシャナが心を許せた存在だったのであろう。
同時にクシャナの復讐の原点が、彼女の母親に関係したものである事がわかる。

 

<P-074>
飛び去る兄に目もくれずクロトワに駆け寄るクシャナ。
ここで初めて利害の一致を超え、クロトワがクシャナの信頼すべき仲間になった。

< 同 >
しぶといクロトワ。
「くたばってたまるか」という台詞からも、彼がただずる賢いだけの男ではないことがわかる。

 

<P-075>
クロトワを担ぎ上げるクシャナ。
ナウシカにせよ、クシャナにせよ、立場的にはお姫様であるにもかかわらず、大の男を軽々と担いで走る程の体力を持っているのは何故か。
この世界では王家の子女は、何かあったときの為にタンスを担いで逃げる花嫁修業でもしているのだろうか。実は、ラステルも意外とパワフルだったのかもしれない。(それとも現実に女性は本当は力持ちで、ただ弱々しいフリをしているだけなのか?)

 

<P-077>
目の前で仇の一人があっけなく死に、呆然とするクシャナ。
それを心底望んでいたはずなのに、「信じられない」といった表情である。
彼女にとって兄たちは常に憎悪の対象であり、彼らを憎むことでクシャナは自分を保って生きてこられたのだろう。
その過程でクシャナの主観において彼らの存在が肥大化し、ある意味不滅の存在にまで高められていたと考える。
ところがその内の一人が全く予想外の形で突然消滅したことで、それを基点として構築されていたそれまでのシェマ(体系化された観念群、世界観)に根本的な疑問が生じ、同時に憎むことで積み上げてきた自我同一性(アイデンティティ)も崩壊した。
これまでは「復讐者」が彼女の基本同一性であったから、その性格も冷笑的・侮蔑的・破壊的といったネガティヴなものになっていたのだと推測する。

 

<P-082>
クシャナの回想から彼女の過去が明らかになる。
クシャナがただ一人先王の血を引いている為(クシャナの母は先王の娘だろう)、常に謀殺の危険と隣り合わせに生きてきた事、クシャナの母が娘の身代わりに自ら毒を飲み、正気を失ってしまった事、それにより唯一の愛情の対象を失ってしまった事、などが読みとれる。
まわり中敵だらけという環境が彼女に人間不信を植え付け、悲観的・攻撃的な性格を形成していったと推測できる。
さらにそんな自分に対する嫌悪感が冷笑的・自虐的といった側面を追加したと見る。

< ※ >
クシャナに毒を盛ろうとしたのは誰なのか。
「父王さまが賜れた」という言葉から、毒の入った杯はヴ王が直接クシャナに手渡したと読める。
確かに彼がクシャナを殺す動機はある。国内の反ヴ王派が先王の血を引いている彼女を担ぎ出し反乱を起こすことを懸念しているのだろう。だがたとえ王とはいえ家臣たちの手前、祝いの席で自ら娘に毒を盛るだろうか。そんなことをすれば専制君主制といえど立場が危うくなりかねない。
ヴ王にとって重要なのはいかに長く玉座を保持するかのみであって、王位の継承問題には無関心だと思われる。よってこの陰謀は次期王位の継承を危ぶんだ兄皇子たちによるものと考えた方が自然なように思う。

 

<P-083>
クシャナが出陣前の時点ですでに反乱を決意していたことがわかる。
また、復讐が彼女の生きる目的の全てで、その達成の為なら「生命など惜しくはない」と考えてきたことが明らかとなる。
ここでのクシャナの表情からは、まるで魂が抜けてしまったかのような印象を受ける。
実際に抜けたのは長年自分の中に閉じ込め、エネルギーの源としてきた「憎悪」であろう。
直前に極限まで高まった憎悪が、その対象であった第三皇子の予想外の死亡によって一気に霧散してしまったのである。
おそらくクシャナは運命の気まぐれを前にして、復讐に全てを注ぎ込んできたそれまでの自分に対し、滑稽さと空しさのようなものを感じているのだろう。

 

<P-084>
阿鼻叫喚の中、歌を口ずさむクシャナ。回想の中で母親が人形のクシャナに歌っていた子守歌だろう。
この時、彼女は憎しみから完全に解き放たれている。復讐に全てを注いできた、つまり「復讐者」としての自分が全てだった為、その唯一の同一性を失った今、クシャナは自分が何者なのか見失った状態にいる。
その脱力感が本能的な生への執着、恐怖心すら麻痺させてしまっているのである。
またこれは、後のクシャナの言葉(B5/P-054)にもあるように、意図せずしてナウシカの自己保存本能欠如と同じ状態になっている。

 

<P-087>
チクク登場。 ただのガキンチョだが、後々重要な役割を担ってくる。
ナウシカの偶然出会う人間は皆、重要人物である。
フィクションゆえの御都合主義とは言うなかれ。

 

<P-089>
即身仏に囲まれ、上人登場。
見た感じ本人の即身仏化もすでに秒読み段階である。

 

<P-090>
さんざん人間離れしたことをやっておきながら、チククに自分が神話上の人物に似ていると言われて驚くナウシカ。
自覚は無いらしい。

「私はごく普通の人間よ?」
「普通じゃないヤツはみんなそう言うんだ。」

< 同 >
彼らの宗教が例の「土着の宗教」であることが判明。

 

<P-091>
シュワの墓所について知るナウシカ。
大海嘯の引き金がそこにあることが判明。

< 同 >
土着の宗教の教義が「腐海は浄化の為に存在し、旧世界の滅亡が人間への不可避の罰である。 よって全ての生き物はそれを受け入れるべきである。」という決定論的終末思想に基づいたものであることが明らかとなる。

< 同 >
それに対して反論するナウシカ。
この反論は論理的なものでなく、単純に彼女の感情を言葉にしただけのものであるが、ナウシカの思想を端的に表してもいる。
「私たちの神様はこう言ってる。」「こっちの神様はこう言ってる。」などという議論自体、無意味であるが。
ここで再び「風の神様」という言葉が出てくる。
彼女の思想の原点であると思われるが、それ以上の意味は無いと考える。

< ※ >
ナウシカの思想の中心は「生命の肯定」である。
言い換えれば、「生きているもの」が「生きよう」とする動きの肯定である。
その原則は絶対的なもので、一切の条件・前提・例外もあり得ない。
極めて単純なこの原則は、その単純性ゆえに強固なものとなっている。
加えてナウシカの場合、この論理が理性(超自我)だけではなく感情(イド)によっても裏打ちされ、更に強力なものになっているのである。

 

<P-092>
「あきらめない」と宣言(決意)するナウシカ。
この言葉は上人へというよりも、むしろ自分自身に向けられている。
ところでナウシカは、目上の人間(社会的地位も高く、自身尊敬もしている相手)に対しても反論することをためらわない。
普通なら自分に相当自信が無くては出来ることではないが、彼女の場合一切の妥協を受け入れない理想主義的性格がそれをさせているのだろう。
この二人の対立は、典型的な潔癖症の子供と清濁併せ呑む大人の対立でもある。

 

<P-097>
上人らの「お行き、心のおもむくままに」、そして「永く待ったかいがありましたね」(P-092)という言葉から、滅亡を受け入れた彼ら自身、その反面、絶望を打破してくれる者(青き衣の者)の到来を待ちわびていた事が読みとれる。

 

<P-103>
毒性の強い瘴気の発生源が、人工の腐海であることが判明。

 

<P-105>
それが粘菌であることが判明。

 

<P-114>
自爆装置起動後、覚悟を決め経を唱えるチヤルカ。
彼が自らの自己保存本能を完全に抑制していることを示し、その精神的な成熟度(自我発達段階)の高さをうかがわせる。

< 同 >
そんな覚悟のチヤルカを、「アホやってないで、とっとと逃げるわよ!」と言わんばかりに問答無用で小脇に抱え連れて行くナウシカ。
腕力がパワーアップ
している。
潔く死を受け入れる姿が滑稽にすら描かれている。
この場合チヤルカは明らかに死を望んでおらず、ナウシカには彼を助ける手段があるからこの行動は必然と言える。

< ※ >
ただ、もし仮にナウシカの前にいるのが自殺志願者で、また彼(or彼女)の抱える問題に対して無力であったなら彼女はどうするのだろう。
社会的な対処法は、@とりあえず自殺を止め、A専門家(精神科医、カウンセラーなど)が相談や治療にあたり、B問題の解決までカウンセリングと精神安定剤の服用を継続する、というパターンである。
つまり社会は(殉教や尊厳死は例外として)基本的に自殺を容認しない。
だが、個人々々の見解は多少違ったものになるだろう。
親身なフリをして「今は辛くても生きてさえいればそのうち良い事もある」などと根拠の無い気休めを言ったり、説教したりする者は中高年に多いだろう。
「自分には関係無い」「死ぬのも個人の自由だ」と、関わるのを避けようとするのは若年層に多いだろう。死にたがっているのが美女なら、ほとんどの男は下心をチラつかせながら相談者を買って出ることだろう。(私も多分そうする)
いずれにせよナウシカのように自分の損失をいとわず、他人の抱える問題をまるで自身の問題のように受け止める人間はごく少数であると考える。
では、ナウシカなら何と言うだろう。以下、私見である。ナウシカなら「死ぬな」とは言わず「生きろ」と言うだろう。(もののけ姫のコピーも「生きろ」だった)
「死なないで」という相手は、ナウシカが個人的に別れたくない相手に限られるだろう。
これはナウシカ(宮崎)の肯定する生が「生存」ではなく、「意志ある生」であるからだ。
第2巻で囮にされた王蟲の子をナウシカは殺せなかった(B2/P-063)が、その理由を「生きようとしている」からと言っている事からもそれがわかる。
よってナウシカは「生きてさえいれば」といった表現は使わないと思われる。
では自殺志願者が抱える問題にはどう言及するだろうか。
「時間が解決する」的な励ましは相手に希望を持たせようという意図であろうが、そもそも自分の未来に対して一片の希望も持てなくなったから人は自殺するのである。
つまり絶望とは未来に希望が存在しないという確信であり、そういった者たちに根拠の無い楽観論を説いたところで焼け石に水であるどころか、「誰も自分の苦しみを理解していない」とかえって孤立感を深める結果にもなりかねない。
その点、ナウシカならまず相手の苦悩を主観的に追体験するところから始めるだろう。(実際、どんなカウンセリングもまず、クライアントの感情や思考、そこに至った経緯を理解することから始める)
彼女の特性として、出会った者たちの不幸を片っ端から背負ってしまう傾向があるといえる。
しかし、大抵の人間はそういったことは好まない。
感動モノのテレビ番組や映画がいつの世でも安定した人気を保持しているのは、他人の不幸は他人事として、他人の幸福は共有したいという心理の表れだろう。
言うなれば「お前の幸福はオレのもの。お前の不幸はお前のもの。」といったジャイアニズムの変形である。
だがナウシカは、「あなたの不幸は私のもの。私の不幸は私のもの。」という一番面倒なパターンを歩んでいる。
そこに彼女の人生の苦難があり、同時に喜びがある。
共に苦しむからこそ、それを乗り越えた先にある喜びも主体的に感じることができるのである。
とはいえ、この時点で彼女が自殺志願者に対してかけられる言葉は、感情論の枠を出るものではないだろう。
彼女の思想はまだ論理化されていないのである。
(本格的な考察は「ナウシカ推考」にて)

 

<P-121>
「今は泣くな」と自分に言い聞かせるナウシカ。蟲たちの死を泣くほど悲しんでいる。
この感覚はこの世界の人間だけでなく、我々にとってもイマイチ理解しがたいものだろう。そこでこのシーンで累々と横たわる蟲たちの死骸を、自分の友人や知り合いの死体に置き換えてイメージして見れば、おそらくナウシカの主観に近いものが得られると思う。
しかも彼らの死は、彼ら自身とは全く関係の無い人間同士の争いによって引き起こされたものなのだから、可哀想すぎて涙も出るだろう。

 

<P-129>
この段階になると、もはや念話がそれほど特殊な能力では無くなっているように感じる。
そこで改めて一度、本作に登場する超能力を整理してみよう。

レベル1・・・念話が使える。
レベル2・・・相手の心が読める。
レベル3・・・念動が使える。
レベル4・・・幽体離脱ができる。
レベル5・・・念動と幽体離脱の複合技として、離れた相手の心臓を握りつぶす(ミラルパ)、離れた相手の胸に火傷をこさえる(僧正)、死んだあと取り憑く(ミラルパ・僧正)、A.T.フィールド(僧正・セルム)、など様々な亜種が確認されている。

 

<P-130>
相手に何かしてあげたいという思いは、
ナウシカが常に感じているものだろう。
ある人間には容易な事でも他の人間には困難極まりない、という状況は現実に珍しくない。
そういった場合、報酬と引き換えに援助する商行為が発生する。
これは生態学的に言っても、実在するあらゆる生物に普遍的に見られる原理である。
(※例えばチスイコウモリの場合、運悪く餌にありつけなかったコウモリ(A)は、同じ群れの餌にありつけたコウモリ(B)に飲んだ血を分けてもらうという。そして立場が逆になった場合は同様にコウモリ(B)はコウモリ(A)に血を分けてもらうのである。しかしそこでコウモリ(A)がコウモリ(B)に血を分けてあげなかった場合、その後コウモリ(A)は誰からも血を分けてもらえなくなるという。つまり生物一般において利他的に見える行動は全て利己的な本能によるものなのだ。)
その点、ナウシカの人助けにはそういった動機が見出せない。
彼女にとって自分にできることなら無条件に援助するのである。
「困ってる人(生き物)がいる。自分には助ける手段がある。だから助ける。」という単純な三段論法である。
これは理想とされる人の在り方、超自我そのものであると言える。
ただ実際何をするかは一般同様、その場の状況や相手への好意の大きさ、責任や義務感などによって規定されるだろう。

< 同 >
チヤルカがミラルパに忠誠を誓いながらも自らの良心に背けない、主体的な思考・判断力を持った人物であることがわかる。

 

<P-131>
大海嘯を「邪教のたわ言」と切って捨てるチヤルカ。
彼は宗教家・信者という同一性の上に、指導層の一員・僧官としての同一性が成り立っていると考える。

 

<P-133>
粘菌の発生によって戦争どころではなくなった土鬼軍。

 

<P-136>
粘菌に意思があることがほのめかされる。
また、粘菌同士が引き寄せ合っていることが判明。

 

<P-140>
チヤルカもナウシカの預言者的特性に感化され始めている。
無意識下ではナウシカの正しさを認識しているが、それを肯定することは自己の同一性の否定に繋がる。彼の言動からはその葛藤が見てとれる。

 

< まとめ >
 この巻で、クシャナの過去、土着の宗教の終末思想、大海嘯の引き金が人工の粘菌であることなどが判明する。特にナウシカと上人との対話は彼女に大海嘯を食い止めるという決意を新たにさせ、同時に彼女の考え方・物事の捉え方をより深く描き出している。
  クシャナにおいては彼女の心の傷を明らかにし、ヴ王や兄皇子たちとの確執を表面化させている。第四巻終了時点でクシャナは同一性崩壊の危険な状態にあるが、 同時にその後の大きな変化の予兆でもある。また、ナウシカの新たな同行者としてチククが登場するが、この時点ではまだテトと同等の扱いである。チヤルカもまた成り行きでナウシカと行動を共にするが、その過程で次第にナウシカの理解者となっていく。
  この巻でナウシカの思想を最もよく表現している言葉は、「わたし、生きるの好きよ」「光も風も人も蟲も私大好きだもの!!」(P-091)、及び、「わたしはあきらめない!!」(P-092)だろう。だが、この時点ではそれもただの感情論でしかない。