第五巻

 

<P-011>
ミラルパが自分の身体を複製物に取り替えることを(可能にもかかわらず)頑なに拒んでいるのがわかる。

 

<P-012>
チヤルカがミラルパの右腕である
ことが判明。

< 同 >
皇兄ナムリス登場。
長老たちを「ジジイども」と呼ぶ傍若無人さからは、弟ミラルパの作り上げた権力構造に対する侮蔑が見られる。
まぁ、実際は彼のほうがもっとジジイなのだが。

ついでにヒドラも登場。
見た目はマッチョなサボテンダーだが巨神兵同様、旧文明のテクノロジーで生み出された生命体である。
「生命を粘土のように作り変える」技術がありながら、何故こんなデザインなのかは歴史の謎。

 

<P-013>
ナムリスが巨神兵を育てていることが判明。
彼にとってはオモチャのようなものだろう。

 

<P-014>
ナムリスが快楽主義者であることがうかがえる。

 

<P-015>
ナムリスが国の支配権奪取を長い間目論んでいたことがわかる。

 

<P-017>
ミラルパの夢。
幼い頃に実父(初代神聖皇帝)が目の前でその体を崩壊させ、死んでいく姿を目撃したらしい。
恐らく移植手術の失敗によるものだろう。

これがトラウマになって、彼は移植手術を頑なに拒んでいたようだ。

 

<P-018>
ミラルパにとってナウシカは、蟲を引き連れ国を滅ぼす破滅の使者なのである。

< 同 >
ミラルパを殺すナムリス。
動機と手段と機会が揃ったのだから、当然の行動とも言える。

 

<P-019>
ナムリスに超常の力が無く、そのためにミラルパが帝位を継いだことがわかる。
また、ナムリスがミラルパと対照的に手術を繰り返して若さを保っていることが判明。

< 同 >
ミラルパの最期。
彼もナムリスに比べれば、(曲がりなりにも)国のことを考えていただけ幾分マシであった。
ミラルパがああなったのは土着の宗教や土民の反乱、自らの老いや帝国の未来など様々なことに恐れ過ぎたのが原因だろう。

 

<P-020>
ナムリスが徹底した利己主義に基づいて行動していることがわかる。
ヒドラを従えて出陣するナムリス。
彼の戦争が純粋に彼個人の為のものである事、彼が人間を信用していない事、人類の未来になど何ら関心を持っていない事などが読みとれる。
ナムリスからは憎悪すら殆んど感じられない。
彼の世界には彼だけしか存在しないのだろう。

< ※ >
 「愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無関心である。」とはマザー・テレサの言葉であるが、ナムリスにとって世界の全てが楽しむ為の道具・オモチャなのだ。その行く末など知ったこっちゃないのだろう。

 

<P-022〜034>
単純に略奪の為だけの戦争。
淡々と人間の愚かさ・醜さが描かれる。

< ※ >
現実に戦争を起こすには理由が必要である。その理由がどんなものであれ、それによって合理化(正当化)がなされ、超自我に反する行為をしても罪悪感から(完全にではないにせよ)免れる事ができるからである。
だが、それはどんなに正当なものに見えたとしても建前にしか過ぎない。本質は略奪である。石器時代から現在に至るまで、規模にかかわらず略奪と無縁の戦争は皆無である。
奪い合うものは主に、土地・資源・食料・労働力などの資本である。これらは生産力の維持・向上という目的にまとめる事ができる。だが人も物もある程度自由に国境を行き来する現在のグローバル社会において、土地や労働力の獲得はそれほど意味を持たなくなってきた。
金持ち国家は土地が無くても資源や食料を他国から入手できるし、生産活動も人件費の安い外国で行えばいい。そのため資本の意味は物質そのものではなく、他国における自国の権益に代わり、相手国に対する影響力・干渉力が重要な意味を持つようになった。
しかし、その理由・大義名分すら存在しない(あるいは最小の意味しか持たない)このトルメキア戦役がこの時代の末期的な人間界を象徴している。

 

<P-037>
ミトの独白。
もはや大海嘯を止めても破局は止まらないという思いが強い。
それでもナウシカは諦めずに戦っていると言う。
だがナウシカが大海嘯を止めたい最大の動機は、人間界の破局というよりも蟲たちの犠牲を食い止めたいという思いだろう。

 

<P-042>
クシャナの独白。 彼女の疲労・自虐が表れている

疲労は精神的なものでもあり、生きる事に疲れていると見る事もできる。
同一性危機(自分が何者かわからなくなった状態。記憶喪失とかじゃなくて)の真っ只中にあることをうかがわせる。
クシャナはここで生き延びる為の賭けをしている。
しかし彼女は本当にその賭けに勝ちたいと、本心から生き延びたいと思っているようには見えない。
クシャナからそういった意志は感じられず、ただ部下たちの為に義務的に行動しているように感じる。
仮に部下がおらず自分一人だけだった場合、彼女が生き延びようとしたかどうかは疑問である。

 

<P-051>
仇であるクシャナに斬りかかるアスベル。
その剣を避けようともせず突っ立っているクシャナ。
憎悪にとらわれ他者の犠牲など顧みていなかった自分が踏みにじって来た者たち、自分の被害者たちに対する罪悪感や贖罪意識が感じられる。
クシャナは償う方法が死ぬこと以外にあり得ないと考えているのだろう。
彼女のしてきたことを考えれば、それも無理からぬことではあるが。

 

<P-054>
クシャナの述懐。 彼女の同一性崩壊と虚無感を表している。
この時点でクシャナは生きる目的を見失っている。
その上、自らの過去の所業を客観的に受け止め、自分という存在の意義さえ絶望視している。

 

<P-055>
大海嘯後の更なる悲劇を予測するクシャナ。
彼女が世界の行く末に深い洞察を持っている事がうかがえる。
もともと優れた洞察力の持ち主だったのが、憎しみから解き放たれたことでさらに視野が広がったのだろう。

< 同 >
クロトワの世話をするクシャナ。 母性的である。
本来なら他の部下がすべき仕事だと思うが。
言ってる事も「お母さん」っぽい。

< 同 >
「猛々しい怒りを燃やしつつ、侮蔑と憎悪でなく悲しむ」とナウシカを表するクシャナ。
印象的な表現である。

< ※ >
 人はどんな時に侮蔑・憎悪し、どんな時に悲しむのか。まず侮蔑する時、人は相手を自分より劣った存在と認知し、かつ相手に対して無関心である。関心のある場合それは「同情」となる。憎悪する時、人は相手を自分と相反する存在と認知し、その存在そのものに否定的となる。この場合は無関心ではいられない。なぜなら相手が存在していること自体、自分にとって有害であるからだ。どちらの感情も主体となっているのは自分個人である。
 一方、悲しみには二つのパターンが考えられる。直接自分に関わる悲しみと、関わらない悲しみである。例えば自身の損失・身内の不幸などは前者であり、ニュースで見た悲惨な災害などは後者である。前者の主体は自己であるが後者の場合、自己は客体・傍観者である。前者は自分の損失に対する生物学的にも自然な反応であり、この場合の悲しみの対象は自分そのものである。一方、後者は本来自分の利害には全く関わりが無いにもかかわらず、一般的にもよく見られる現象である。世界各地の災害や紛争や独裁者の横暴、それによって人々が苦しんでいる姿をテレビで観るたび我々は心を痛め、義憤を感じ、同情する。ただしこの悲しみは他者を主体としてはいるが、必ずしも利他的な行為とは言い切れない。
 そもそも基本的に人は他人の苦しみに無関心である。地球の裏側で起こった悲惨な事件・事故・災害を神妙な顔をして報道した直後、一転して明るい笑顔でスポーツニュースに移行するニュースキャスターなどはその事実を露骨に見せてくれる。(彼らは視聴者の意向にそった番組編成をしている。) これは「適度」な悲しみという感情が精神の健康バランスを保つ上で有効であるからに他ならない。我々はお笑い番組から恋愛ドラマ、ドキュメンタリーにホラー映画まで様々なメディアを通して自身の感情を刺激している。これは純粋に利己行為であり娯楽である。だが時に「適度」の範囲を超え、過剰に感情移入してしまう場合もある。この場合、客体であったはずの自分が主体になっており、本来自分と「関わりの無い悲しみ」であったのが「関わりのある悲しみ」と認識されている。これが唯一利他的になりうる悲しみのパターンだろう。
 だがいずれの場合でも、目の前に明確な脅威が存在する状況において人は普通「悲しむ」余裕を持たない。これは自己保存本能が、より指向性のある感情(憎悪・恐怖など)を優先させるからだ。しかし何度も触れたようにナウシカにはこの原理が働いていない。自分が相手の憎悪や敵意の対象となっている状況においても、まるでその対象が他の人間であるかのように振舞うのである。これは彼女の自己意識が個体の枠組みを超え、徐々に全体レベルの規模にまで拡大していることを象徴している。(セルフイメージ・自己概念が個体の枠組みから超出すること、これは「愛」の本質である。)

 

<P-056>
大海嘯後の混乱をまとめ上げる、新たな指導者の必要性を説くクシャナ。
だがケチャに言われるまでも無く、この言葉の空しさを誰より実感しているのはクシャナ自身だろう。
なぜなら彼女自身、今回の破局をもたらした元凶の一人であり、未来を語る資格を持たない者だと自覚しているからだ。

 

<P-062>
感情を押し殺し、ひたすら苦闘するナウシカ。
彼女が戦っているのは破滅に突き進む現実であると同時に、彼女自身の「絶望」でもある。

 

<P-064>
粘菌の大繁殖を危惧するナウシカ。

< 同 >
悔悟のチヤルカに対し、「あなたを責める気はありません」とナウシカ。
彼女はいかなる状況においても人を責めることをせず、ただ問題の解決にのみ専心する。
このような『問題中心的な思考』は、自己実現を達成した人間の特徴の一つでもある。

< ※ >
人を責める事と人の間違いを指摘する事は似ているようでその実、正反対の行為である。
責めるという行為は言葉そのまま相手への攻撃である。それは問題解決・再発防止の仮面をかぶったカタルシス(=イライラや不満を解消する為の行動、ヤケ食い・ヤケ酒・八つ当たり・夕陽に向かって「バカヤロー」と叫び、盗んだバイクで走り出すなど、様々なバリエーションがある)でしかない。実際の問題解決に対してネガティヴな態度である。一方、間違いの指摘は相手全体ではなく問題のある部分だけに的を絞った、純粋に状況改善の為のポジティヴかつ合理的な態度である。

 

<P-065>
粘菌が「憎しみと恐怖しか知らない」とナウシカ。
粘菌に対する哀れみと、それを人間が作り出したという事に対する悲しみが感じられる。
しかし、この悲しみはどちらかと言うと、外集団(自分の所属していない集団)に向けられたもののように感じる。
チヤルカが当事者として責任・罪悪感を感じているのとは対照的である。
人間に対する失望が深まる程、蟲の世界への憧れが膨らんでいくのが見てとれる。

 

<P-066>
自分個人の責任でもないし、実際自分が責められている訳でもないのに謝罪せずにはいられないチヤルカ。
彼の責任感の大きさが読みとれる。

 

<P-067>
虚無登場。
精神世界でナウシカが幼女の姿をしているのは、彼女の大人になりたくないという願望の表れであろうが、実際のところ彼女がなりたくないのは「大人」というよりも「人間」であるように感じる。
自分は人間であって蟲ではない、という事実から無意識に目をそらしていると考える。

< ※ >
この心理は昨今話題のニートの方々にも多く見られる。
つまり、社会に出ることでその社会によって自分の存在を規定されてしまう事を拒み、自分で自分の意味を決めようと、自らの理想に合致する同一性を模索している段階である。
ただその状況が快適な為、積極的に探索していない者も少なくない。

 

<P-068>
虚無はナウシカのタナトス(死の欲求)を擬人化したペルソナ、もしくはシャドウ(影=無意識下に抑圧された別の人格)であると考える。

< ※ >
人間の精神を、「自我・超自我・イド」の三つに分けて考えたのがフロイトである。
イド(本能)から発生した欲求が超自我(倫理)によって検閲され、それを自我(現実的判断)が具体的な行動に加工する、と言うのがその主旨である(多分)。
タナトスは死の本能とも言われ、エロスの対極に位置する概念である。言う人によってエロス・タナトスの意味がかなり違うので、先に勝手な定義付けをしておく。
エロスは恋愛・性愛の意味で知られているが、本質は不満や不安の解消・喪失の補填と考える。
それはより安定した生存の希求であり、「生」への欲求(「性」でなく)であると言える。(恋愛だけでなく友情や家族愛なども、心の隙間を埋め、孤独を忘れさせ、精神の平安をもたらしてくれる。)
タナトスは自らの死・破滅・否定を望む感情である。
イドというものは「快感を求め、不快を避ける」という快楽原則に従っている。しかし我々は生産的な欲求行動はもちろん、自滅的な欲求行動によってもなぜか快楽を得ることができる。
この二種類の欲求行動はそれぞれエロスとタナトスに基づいた、根本的に相反するものである。
さらに人間は死というものを知っている為、それを現実逃避の究極の手段として利用することを思いついたのである。その場合、例えば死を望んでいる人は希望よりもむしろ絶望を、肯定より否定を、受容より拒絶を求める。なぜなら自己評価を下げれば下げるほど「生」に未練が無くなり、「死」に対する抵抗感や迷いが軽減するからである。
 ちなみにタナトスが見られるのは人間だけである。それはタナトスが死の概念を前提に成り立っているからである。意識を持たない他の生き物には「自らの死」という概念が存在しない。よって苦痛を回避する為、「死」に逃避するという発想は浮かび得ないのである。
結論として、エロス・タナトスは人間のイドが持つ二面性であると考える。

 

<P-070>
夢の中で王蟲に会い感激するナウシカ。
まるで長い間引き離されていた恋人と再会したかのような喜びようである。

 

<P-075>
「誰も眠りを妨げるな」と言っておきながら、自らチククをたたき起こすチヤルカ。

 

<P-079>
この時点でナウシカは、王蟲が粘菌を攻撃する為に来るものと考えている。

 

<P-083>
斥候の王蟲の死に悲しみが抑えきれなくナウシカ。
人間の死にこれほど悲しみを見せたことは無かった。

 

<P-085>
変異体の粘菌も普通の粘菌と同じだと気付き、王蟲たちのやろうとしている事を理解するナウシカ。
同時に「南の森」が粘菌であることを理解する。

 

<P-086>
蟲たちの粘菌に対する行為が、「攻撃」ではなく「受容」であったことが明らかになる。
しかし、粘菌を「食べる」ことで受け入れることが出来ないので、粘菌の合流地に森を築き迎え入れようという蟲たちの狙いだという。
仲間(粘菌)が孤独に怯えているから助けよう、という単純な動機である。
ここで腐海の生物の特異な愛情形態があらわになる。
蟲たちにとって「食べる」事が愛情の表れであり、受容を意味している。
そして、蟲が死ぬとその死骸は木々の苗床となり森を育てる。
恐らく蟲はみな草食性で、他の蟲を捕食したりはしないのだろう。(第一巻でテトが「大王ヤンマに運ばれていた」とあるが、あるいは腐海以外の動物を捕食することはあるのかもしれない。ただ単に長期連載の作品によく見られる設定の変化と考えることもできる。)
つまり、蟲の世界には食物連鎖というものが存在せず、よって生存競争も起こらない。
植物の世界においては粘菌のように食い合うものもいるが、彼らにとっては「食べること」も「食べられること」も同じく「共存」という意味を持っている。
そこには一方的な捕食も被食もないのだろう。

< ※ >
これらの特徴は実在するどの生態系とも根本的に異なる。現実の動植物は自らの種(遺伝子)の繁栄のみを目的とし他者や全体を顧みることが無い。環境に適応すれば際限なく増え続け、生態系を損なうこともいとわない。人類や在来種を駆逐する外来種をみればそれは明らかだ。(腐海の蟲たちがそうならないのは最終巻で明らかになる通り、彼らがそのように造られているからだろう)
だがそういった新勢力の台頭による旧生態系の崩壊は生物史上、幾度となく発生してきた。魚類の時代、爬虫類の時代、哺乳類の時代、人類の時代。いつの時代も生態系は常に変動している。その変動に対応できず滅んでいった種は人間が把握している数の何千倍、何万倍にも上るだろう。現在、絶滅危惧種保護や生態系維持を目的とした様々な活動が「自然主義」の名のもとに何の疑問も無く行われている。だが本来自然界では競争の末の淘汰が基本であり、生態系は変動している状態が普通とも言える。その意味で「生態系の維持」はむしろ反自然主義的な発想であるように思う。滅びもまた自然の一側面なのだ。ただ人類が自らの行いによって絶滅の危機に瀕している動植物に罪悪感から保護の手を差し伸べる事も、別の意味で「自然」と言えなくも無いが。(外来種問題のさらなる考察は「ナウシカ推考」にて。)

 

<P-088>
大海嘯を止めることが不可能だと悟るナウシカ。
ナウシカの主観をイメージしてみる。
“王蟲はもうすぐ来る。彼らは合流地点で死に、森になる。だが粘菌はその森ごと王蟲を食べ尽くしてしまうだろう。その後、粘菌は球状になり、やがて無数の胞子を噴出して死ぬ。粘菌が不妊性なら蟲たちの通過した広大な地域が腐海に没し、そうでないなら粘菌が大繁殖し世界中が食い尽くされることになる。どちらにしろ人類は滅亡の危機に瀕することになるが、それは人間が自ら招いたことでもある。しかし同時に無関係の蟲たち、特に最愛の王蟲たちまでみんな死んでしまう。それが耐えられない。受け入れられない。なぜ彼らまで死ななければならないのか。大海嘯を止める為に辛い旅をしてきた。人間を破局から守り、王蟲たちの死を回避する為に。だがそのどれもが失敗に終わった今、自分のすべきことはなくなってしまった。世界は美しい。こんなにも輝いている。でももうすぐ全てが滅びる。自分の戦いも終わる。”
ナウシカの絶望と無力感が致命的な段階にまで深まっている事をうかがわせる。

< ※ >
 ナウシカの同一性は「悲しみを消す者」であると考える。悲しんでいる者がいればそれを消すため行動し、新たな悲しみが生み出されようとしていたら全力でそれを阻止する。ナウシカのこれまでの行動は全てこの原理に当てはまる。だがここでナウシカは、今まさに起きようとしている悲劇に対して何も出来ない状態である。「どんなに強く願っても、どうにもならないことがある」という現実と自分の無力さをまざまざと見せ付けられ、彼女の同一性は崩壊寸前である。

 

<P-100>
ユパを助けるクシャナ。
「私の戦」という言葉が彼女の贖罪意識を表している。

 

<P-101>
自らを犠牲にしてユパたちを助けようとするクシャナ。
これは彼女なりの恩返しであるが、裏には「自分は死んで当然の人間だ。むしろ死ぬべきである。てゆーか、もう死にたい。」といった感情があると考える。
それは同一性の崩壊や生きる目的の喪失と相まって、さらなるタナトスへの傾斜をうながしている。

 

<P-102>
クシャナの覚悟を察するユパ。
同時に彼がクシャナの重要性を確信していることがわかる。
なぜならクシャナは、@現実(人の愚かさ)を身をもって理解しており、A世界的な視野を持ち、Bさらに未来に対する明確な展望をも持った、C高い地位にある人物、という条件を全て満たしているからである。
クシャナこそ、大海嘯後をまとめる新たな指導者として理想的であるとユパは考えている。

< 同 >
ヒドラたちの目的がクシャナの拉致であることが判明。

 

<P-114>
クシャナを拉致したナムリスの思惑が、ひ孫ほども年の離れた彼女との婚姻であることが判明。・・・どんだけ歳の差カップルだ。

 

<P-116>
セルム、ナウシカと出会う。
しかし、ナウシカ熟睡中。
テトもあっさり手なずけられる。
もはやテトの威嚇も形式的な感がある。

 

<P-118>
ナムリスのヘルメット、ミラルパやヒドラの面布、また国教の神の姿などいたる所で「眼」が強調されている。
それは監視・威圧・支配、そして不信を象徴していると考える。
僧正や上人らが神に仕えるため自ら視力を捨てたのとは対照的である。

 

<P-119〜121>
他人事のように現状を語るナムリス。
人類の未来なんかどーでもいい、といった感じである。
彼の態度からは彼自身を含めた全てに対する侮蔑と嘲笑を感じる。

< ※ >
これはかつてのクシャナのヤサグレっぷりと似てはいるが、本質的に別物である。クシャナは憎しみに囚われるあまり他が目に入らなくなっただけであり、決して他者を無価値と断じた訳ではないだろう。彼女の自虐や冷笑的態度は自身の満たされない願望への反動であり、それ自体、彼女が前向きな願望を持っていることの証明となる。
一方ナムリスは広い視野と現実認識を持った上で、存在するもの全てが無意味だと考えている。彼は何一つとして客観的な価値を認めていない。そうして全てを否定した最後に残ったのが動物的な欲求・イドである。ゆえに彼は快楽の為だけに生きるのである。
エロスは生きているものが生き続けようとするように、あらゆるものに永続性(発展も含む)を求める。エロス優位の人間は自然とその行動も生産的なものになる。
逆にタナトスはあらゆる永続性を否定し、存在価値を否定する。その結果タナトス優位の人間は、刹那的・非生産的・享楽的となる。ナムリスは超タナトス人間とも言え、まさにナウシカの対極に位置している。(しかしナウシカを超エロス人間と呼ぶのは、色んな意味でインパクトあり過ぎなので自粛する) その意味で彼は、弟よりも「生きている闇」という表現が似合う人物であろう。
クシャナもかつてはタナトス優位の人間であったが、母や自分を慕う部下たちなどの存在がかろうじて彼女を虚無から引き離していたと考える。

 

<P-124>
暴れまわるクシャナ。強すぎ。

 

<P-125>
クシャナとナムリスが過去に面識があることが判明。その方が話がスムーズに運ぶからだろうか。

 

<P-127>
ナムリスの思惑が土鬼とトルメキアの統合であることが判明。
また彼は再三、性的な表現を使っている。
下劣さの強調であるが、今までに彼ほどこういった表現を多用するキャラはいなかった。
これは宮崎が、性的な側面も無視できない現実の一部であり、いつまでも本作品をキレイな物語のままにしておくわけにはいかない、と考えたからだと推測する。

< 同 >
取引に応じるクシャナ。
今のクシャナなら部下たちを助ける為に何でもするだろう。
彼女にはもう他に何も残ってないのだ。
彼女の不敵な笑いは、ナムリスの申し出に興味を持ったという芝居だろう。
ナムリスはクシャナが自分と同種の人間だと認識している。
つまり、いつか裏切るであろう事はわかっているのだ。
だが少なくとも両国の統一までは裏切ることは無い、と考えているのだろう。

 

<P-132>
「最後のフライトか」とナウシカ。
この時点で既に生きて帰るつもりは無いようである。
王蟲に対する想いで頭の中がいっぱいで、大海嘯後のことを考える余裕など無いのだろう。

 

<P-134〜135>
ナウシカはこの時点では、王蟲が怒り狂っていると考えている。
この場面の王蟲の眼を赤くイメージしてみれば彼女の主観が見える。

 

<P-137〜139>
無駄とは分かっていながら、それでも王蟲を説得しようとするナウシカ。
再びナウシカの主観をイメージしてみる。
“最愛の王蟲たちが怒り狂い暴走している。その果てにあるのは彼らの死。彼らの怒りは人間の愚かさに向けられている。そう、人間は救いようもなく愚かだ。罰を受けて当然だ。だがそれで王蟲たちまで死んでしまうことが納得できない。王蟲は理解していた。大海嘯が必然だと。人間の愚かさも、それゆえの破滅も、蟲たちの死すら定められていた事だと。もう止める術は無い。わたしは王蟲(=最愛の恋人+最大の理解者)を失う。わたしはまた一人になってしまう。”
ナウシカの意識がかなり以前から人間の世界から遊離し蟲の世界に傾倒していたこと、それにより彼女が長い間心の底で孤独感を抱えていた事などがわかる。

 

<P-141>
虚無が上人と違うと言い張るナウシカ。 その根拠は「匂い」らしい。
直観的に理解はしているがまだ論理になっていない、といった感じである。
上人と虚無の違い。それはエロスとタナトスの違いだろう。
上人があくまで建設的な見地から、再生のために滅びが必要であると言っているのに対し、虚無は滅びが人類の愚かさ・罪への罰であり、それ自体に意味があると言っているのである。

 

<P-142〜143>
虚無はナウシカのタナトスであるから、その非難はナウシカの自己批判であると言える。
これはそのままナウシカが抱える自己矛盾を示している。
虚無の論理は生に対して否定的ではあるが、極めて現実的でもある。
一方、ナウシカの同一性・セルフイメージは未だ「少女」のままであり、目の前に展開する人間の醜さや自分の限界などの残酷な現実に対して何ら対抗力をもっていない。
これまでは感情に任せて行動し、それが運良く実を結んできたが、もはやそういった行動では問題を解決できない段階に来たことを理解せざるを得なくなっている。
これによりナウシカのシェマ(自分を中心とした主観的世界)は破綻し、同時にナウシカの同一性も崩壊する。
そしてナウシカは自分が「呪われた種族の血まみれの女」であると言う事実を直視する。
換言すれば、「どんなに望んでも自分は決して蟲にはなれない」という現実を受け入れたと言える。
これにより自己矛盾は解消されたが、それは同時にナウシカの子供時代の終焉も意味している。
さらに類まれなる認識力で在りのままの現実を直視した結果、ナウシカのシェマは(虚無のそれと同様)極めて現実主義的なものへと再構築され、それにより彼女の絶望は決定的なものとなる。
この瞬間、ナウシカは虚無に喰われたのである。

< ※ >
虚無のようにシャドウ(抑圧されたペルソナ)が明確な外的な形(幻覚・幻聴など)をもって現れる現象は、精神分裂病の患者に見られる。

 

<P-144>
決意するナウシカ。王蟲と共に逝くという意味だろう。

 

<P-146>
王蟲たちが怒り狂っているのではないと気付くナウシカ。
彼らがただ単純に仲間(粘菌)を助けようとしているだけだということを理解する。

 

<P-147>
「生きたまま木になれれば」というナウシカの一言が、彼女の理想とする生き方を象徴している。

 

<P-151>
ここで見られるナウシカの安らぎは、生を放棄した者特有のものである。

 

<P-155>
ナウシカを食べる王蟲。
当然摂食行動ではないが、この「食べる」が意味するところは自己への取り込み・同化であり、また前述にあるように蟲たちにとって愛する事と食べる事が同義である事などから、王蟲のこの行為は運命を共にしようとするナウシカへの最大限の愛情の表明と見ることができる。

 

< まとめ >
この巻で物語は大きな節目を迎える。
まず世界情勢では、土鬼皇帝の交代、大海嘯の発生、それに伴う土鬼国土の喪失、トルメキア軍の撤退等、様々な局面が今後の更なる混乱を暗示している。
登場人物たちにも一様に苦難の時期となっている。チヤルカは僧会の行ってきた事が破滅を呼び寄せたと認識し、罪の意識を一人で背負い、それでもナウシカと協力して少しでも被害を軽減しようと奮闘している。彼にとっては同一性の危機だけでなく、信仰の危機でもある。
クシャナはいまだ同一性喪失の状態にあり、部下を守るという責任感がかろうじて彼女を生かしているような状態である。だがその行動の端々からはタナトスの影が色濃くにじみ出している。
終盤ではナウシカもまた同じような状態に陥っている。虚無との対話によって自分が「人類の一員」であると言う現実を認めざるを得なくなり、人間の愚かさや醜さに対する幻滅をそのまま自分の罪悪感へと転化してしまっている。そしてナウシカは絶望に押し潰され(=虚無に喰われ)、人間の罪悪を償うというよりもむしろ、現実から逃避するように王蟲たちと共に死のうと決断する。
物語は大海嘯後へと流れ、世界の破局はさらに規模を拡大していくが、ナウシカはここで一度その舞台から降りてしまっている。